今年の春から秋口にかけて、『マスケティアーズ』(NHK)という連続ドラマが放映された。これはフランス人作家アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』を下敷きに、イギリスBBCが'14、'15年に制作した歴史活劇である。
 17世紀パリ、国王ルイ13世直属の「銃士隊(=マスケティアーズ)」が、枢機卿率いる「親衛隊」との対立や隣国スペイン絡みの陰謀を乗り越えながら奮闘する物語は、今年に入りその続編が本国イギリスで放送されているという。

 フランスの古典文学を“表敬リメイク”したイギリスでは、この夏の国民投票によりEU離脱が選択された。「主権への尊厳」「地域の独立性確保」と言えば聞こえはいいが、実際のところ「移民・難民流入への忌避感」が離脱派最大のモチベーションだったことは否定できず、またこの選挙結果を受けて、英仏は間接的に袂を分かつこととなる。
 第一次世界大戦中の1916年(つまり今からちょうど百年前)、大戦後のオスマン帝国分割案として、イギリス人とフランス人により両国の利益を優先する国境線が好き勝手に引かれた(サイクス = ピコ協定)。現地の民族・宗教事情をまったく無視したこの国境線は、今日に至る中東紛争の原因とされ、いま世界中が憂慮するシリア内戦にも繋がっている。
 「英仏共謀」の帰結の一つであるシリア内戦が夥(おびただ)しい難民を生み、彼らの欧州への大量流入がEU離脱派勝利の決定的要因になったのだとしたら、それによる「英仏分断」は、中東の人々にとって心中複雑でありながらも不愉快ならざるものだろう。

 シリア内戦を報じる国際ニュースにおいては、アサド政権およびその後ろ盾であるロシアばかりが悪者に仕立てられている。アサドやプーチンの残虐性については今さら疑いの余地もないが、我々に届く「国際ニュース」とは、現状あくまで「国際的に巨大な影響力を持つ西側の大手メディアによるニュース」を意味し、そこに「西側有利」へと導くバイアスが掛かっていることもままあるだろう。
 例えば、元・在シリア大使の国枝昌樹氏は、著書『「イスラム国」最終戦争』(朝日新書)で、シリア内戦に関してこんなことを述べている。
 「ロンドンに本部を置く『シリア人権監視団』は、『25万人以上に及ぶシリア国内死者の8割以上が市民で、主に政府軍の空爆による死亡』と発表し、それが世界に広く報道されているが、激戦の最中に犠牲者の詳細な内訳を日々リアルタイムで報告するという“離れ業”には、日頃から少なからず疑念を覚える」
 「『シリア人権監視団』の主宰者は反体制派側の人物だが、この『反体制派』というのがそもそも信用ならない。シリア国外に住む反体制派はサウジアラビア、カタール、トルコ、そして欧米諸国に支持され、国内の反体制派組織とは関係が希薄どころか却って疎まれる存在だが、その『国内の反体制派』にしてもサウジ、カタール、トルコなどに支援された保守過激イスラム主義グループと化している、つまり『イスラム国』に近い勢力に変容している」
 政府軍の暴虐は西側のデッチ上げ――こういった見解がどこまで正確かは分からない。が、いずれにせよ、そんな「西側に不利な」情報が「国際ニュース」にそのまま乗る可能性は限りなくゼロに近いのだ。

 『三銃士』が生きていたような時代は、確かな情報を得るのも容易でなく、物事の実相が分厚いベールに覆われていたことだろう。それに対し、“超・情報化社会”である現代は、ことにアメリカを始めとする西側大手メディアの力などを以てすれば、さも全ての情報が収集可能だとすら思えてしまう。
 しかし、彼らが入手した情報を自らの都合よき方向に捻じ曲げ、あるいは入手できなかった情報を捏造しながら「真実として」報道し、それを受け手が「情報精度の高い現代であるがゆえに」やすやすと信じてしまうなら、ほとんど暗中模索で情報の信憑性自体が怪しかった頃よりも、むしろ問題の根は深いと言えよう。つまり、進歩したのは「情報技術」だけでなく「強者どもによる騙しの技術」でもあるのだ、と。


 『スポットライト 世紀のスクープ』('15・アメリカ)は、新聞記者たちが教会のスキャンダルを暴露した実話に基づく映画である。
 2001年、アメリカ東部の地方新聞「ボストン・グローブ」紙に、マイアミから新しい編集局長が転属して来る。カトリック教徒の多いボストンで、彼は「神父による児童への性的虐待をカトリック教会が組織ぐるみで隠蔽してきた」という不祥事を暴くよう、調査報道チーム〈スポットライト〉に取材を持ちかける。
 地方都市ならではの排外性、心の拠り所である「神の領域」を荒らしたくないという意識、そして何よりも“最強権力”である教会に楯突くことへの恐れなど、様々な阻害要素に苛(さいな)まれながらも、それらに屈することなく被害者や弁護士たちへの地道な取材を続け、チーム〈スポットライト〉は徐々に事件の真相へと近づいていく。
 ジャーナリズムの鑑とも言うべきエピソードが実話として存在し、それを描いた映画にアカデミー作品賞を授ける“アメリカン・カウンターカルチャー”の懐深さには、相変わらず敬意を表したいところである。が、それならば、「西側大手メディア」が世界へ向けて発信するニュースの“利己的歪曲”をも、ボストン・グローブのごとき気骨ある地方ジャーナリズムが暴き立てることは果たして期待できるのだろうか。それとも、そんな気骨はあくまで「被害者が西側の人々」である場合にのみ発揮されるものなのだろうか。

 ところで、映画『スポットライト』には、9.11事件の勃発により教会スキャンダルの取材が後回しを余儀なくされる場面がある。
 この9月で、アメリカ同時多発テロから15年。当時のブッシュ政権が怒りに任せてブチ上げた「対テロ戦争」は、テロを封じ込めるどころか逆に全世界へと拡散させてしまった。ISに共鳴する一匹狼型のホームグロウン・テロリストたちは「厳重警備」を難なく躱(かわ)しつつ世界中で「任務」を遂行し、アルカイダのアイマン・ザワヒリ指導者は15周年にあたり「お前たちがこうした犯罪を続ける限り、9.11事件は何千回でも繰り返されるだろう」との声明動画を出した。
 “推定有罪”の人々があっさり斬首刑に処され、仇敵には復讐あるのみだった『三銃士』の時代から四百年。人間の理性は格段に進歩し、そんな野蛮な慣行は遠い昔の遺物だということになっている。だが、「欧米式国家テロ」と「イスラム過激派テロ」による世界規模での報復の応酬と、そこから生じる罪なき一般市民の甚大苛酷な犠牲を見る限り、進歩したのは「理性」どころか「野蛮性のグローバル化」に他ならないようである。


'16.秋  東雲 晨





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