この早春、『わたしを離さないで』(TBS系)という連続ドラマが放映された。イギリス人作家カズオ・イシグロ氏の原作を基にしたこのドラマは、奇妙な施設で育った主人公の回想形式でストーリーが展開する。
 外界から隔離された寄宿学校で教育を施された三人の男女は、やがて自分たちが臓器提供のために造られたクローンであることを知る。学校から巣立った彼らは、「提供者」になる日を待ちながら余生を過ごすという絶望的な状況の中、それでも友情や愛情に執着し、生きる希望を求め続ける。
 臓器移植やクローン技術への賛否について、作者からの直接的な言及はない。だが、「臓器提供のためのクローン作製」という仕組みに対する登場人物の批判的なセリフや、情に流された美談仕立てとも思えるシーンなどを通じて、視聴者は「自らが考え、想像すること」を強く要請されるのだ。

 カズオ・イシグロ氏と同じイギリス人の映画監督リドリー・スコット氏による『ブレードランナー』('82・アメリカ)では、今でいうクローンを思わせる「アンドロイド(人造人間)」の叛乱が描かれた。
 近未来、地球環境の悪化で人類の大半が宇宙に移住し、地球に残った人々は人口過密の進む荒廃した都市部で暮らす。宇宙開拓の最前線では、遺伝子工学の進歩により開発された人間そっくりの「レプリカント」なるロボットが奴隷労働に従事する。製造から数年で彼らにも感情が生まれ、そのうち数人が人間に叛逆し地球へと逃亡。彼らを追って処刑するため、専任捜査官(ブレードランナー)が地球に送り込まれる。
 『スター・ウォーズ』や『E.T.』といった、当時の主流であるスペース・ファンタジーとはかけ離れた、「酸性雨の降りしきる、暗澹たる未来都市」という舞台設定のせいもあってか、公開当初は興行的に不振を極めたものの、その先進的な世界観が時を経るごとに評価を上げ、最終的には「SF映画の金字塔」とまで崇められるに至った『ブレードランナー』。
 「万物に魂が宿る」とするアニミズムとは異なり、人間の都合で後から造った人工物にすら「魂」を見出そうという「西洋的合理主義の不自然な一面」を曝け出してみせた一方、「全く同等の知能や感情を手にした時点で、人間と人造人間の間に差などあるのか」との問題提起もしてみせた本作が、いずれにせよクローンや人工知能(AI)時代の到来を三十数年も前の段階で予見した“空想科学性”は、確かに「SF映画の金字塔」と称されるべきものである。
 そんな作品の続編が、同じ「主演=ハリソン・フォード」で再来年初頭に公開されるとの発表が先頃あった。世紀をまたいで甦る“先進作”は、さらなる数十年後を予見してくれるのだろうか。

 なお、『ブレードランナー』でレプリカントのリーダーを好演するルトガー・ハウアーは、その前年、『ナイトホークス』なるアメリカ映画で一躍脚光を浴びたオランダ人俳優である。この映画の主役は、「ロッキー」シリーズでスターダムにのし上がりつつあったシルベスター・スタローン。彼が扮する刑事を追い詰める国際テロリストが、ルトガー・ハウアーの役どころである。
 国際テロリストを白人が演じる――およそ今では考えられない設定も、“悪玉といえばソビエト”だった冷戦期のアメリカにおいては、ごく常套的なものだといえよう。しかし、あたかも善悪ひっくるめて「白人だけで成立している」かのような構図からは、当時のアメリカ自体の情勢も窺えるのではないだろうか。

 現在、アメリカ大統領選の共和党候補指名争いは、ドナルド・トランプ氏が依然として優位に立っている。人種差別や移民排斥など極右的発言を連発する彼の思わぬ人気持続ぶりに、党内保守本流の面々もいよいよ色めき立ち出した。その困惑顔が本心なのか党ぐるみの演出なのかはさておき、トランプ氏の中核支持層は「低所得の白人労働者階級」であるという。
 今から半世紀前、アメリカでは全人口の8割以上を白人が占めていたが、その後、黒人やヒスパニック、アジア系の移民が子孫を増やし当地に根づいた結果、現在の白人比率は6割強にとどまり、数十年後には半分を切るとの予測すらある。そんな“白人マイノリティ化”による被害を、移民に仕事を奪われたうえ「アメリカでの主役の座」をも奪われるという形で最も切実に食らう白人労働者たちの怒りや焦りが、トランプ人気を下支えしているというのだ。
 「既得権益を攫われる危機感」に白人が駆られるのは、アメリカだけに限った話ではない。
 第二次世界大戦が終わり、経済復興期にあった頃のヨーロッパでは、人手不足を補うべく安価な労働力としてイスラム圏から移民労働者を受け入れ、苛酷な肉体労働を担わせた。だが、家族を呼び寄せ子孫を増やした彼らは、やがて白人の雇用を脅かす存在として疎まれ、差別や排除の対象になっていく。
 白人の都合で翻弄され、「民族融和」なる美名のもとに酷い抑圧を受けてきたイスラム移民たち。まるで「無いもの」のように人目から逸らされ続けた彼らの憤懣が、ここへ来て俄かに表出し始めた。そして、その受け皿であるかのごとく現れ、活動領域を拡げつつある「イスラム国」(IS)は、「虐げられた人々」の憎悪や絶望を吸収・利用し、今日も“世界戦争”を煽り立てている。

 ところで、前掲した映画『ナイトホークス』と同じ題名の絵画が、テレビ東京系『美の巨人たち』昨年度最終週の放送で紹介された。
 20世紀アメリカを代表する画家、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス(=夜更かしする人々)」(1942年制作)。深夜のニューヨークのダイナー(小食堂)で、三角形のカウンターに客が三人と給仕が一人。視線も言葉も交わさない四人の佇まいが「大都会の孤独」を感じさせ、まばゆい店内と仄暗い街路とのコントラストには、繁栄を誇る当時のアメリカ物質文明の「光と影」が表現されている――こんな解析が番組でなされたが、「想像力をかき立てる画風」で知られるエドワード・ホッパーの透徹した眼が捉えた「光と影」は、果たしてそれだけに留まるものだろうか。
 例えば、「奴隷用レプリカント」を扱うごとき仕打ちに苛まれる移民労働者。あるいは、「臓器提供用クローン」に強いるような犠牲を求められる沖縄。東西世界のいたる所で、「立場強き者ども」が隠密裏に及んできた非道行為は、もはや覆うべくもないほど可視化され始めた。暗闇に塗り込めた蛮行が、明るみに晒されつつある――第二次世界大戦中に描かれた“夜を照らす灯りの絵”は、そんな昨今の潮流すら映し出しているのかもしれない。そう、“七十余年後の世界戦争”をしっかり予見したうえで。


'16.春  東雲 晨





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