この秋、「真の民主選挙」を求めて香港の民主派学生たちが起こした反中デモ“雨傘革命”は、一ヶ月経ってなお収束の兆しが全く見えない。

 香港トップを決める2017年の香港行政長官選挙へ向けて中国の全人代(=国会)が発表した普通選挙案は、あらかじめ民主派が出馬できないよう仕組まれた「偽の民主選挙」であるとして、民主派は香港市街の占拠という抗議行動に打って出たが、催涙弾を雨傘で避けつつ警官隊と睨み合ううち、“思わぬ後方からの攻撃”にも見舞われた。占拠のせいで商売に大打撃を受けた地元の商店主たちが「われわれ市民の生活を圧迫するな」と反発の声を上げ始めたのだ。
 遠い日の革命より当面の食い扶持を――そんな小規模自営業者の訴えは、「原発や米軍基地に依存するしか生きる道はない」という現地住民の主張と同様、根本解決からは懸け離れながらも一種の切実さを孕んでいるが、ほぼ時を同じくして、親中派で知られる香港の映画スター、ジャッキー・チェン氏が「経済損失が3500億香港ドル(約4兆9000億円)に上るとニュースで知って、大変いらだっている」とデモ隊を批判した。
 社会運動をビッグマネーの損得勘定のみに直結して憤る単純さは、いかにも「勧善懲悪の億万長者」である。


 この秋、スコットランドで行われた独立住民投票は、予想外の大差により反対派が勝利し、イギリス残留が決まった。とは言え、独立投票の実現自体が、カタルーニャやバスクなどでの予(かね)てからの独立気運に拍車をかけることだろう。 

 スコットランド独立が否決された最大のネックは、北海油田からの税収を主な財源にするという自治政府方針への不安や、独立後は通貨ポンドの継続使用が認められなくなることへの懸念など、ひとことで言えば「経済不安」であり、ここでも「遠い日の革命より当面の食い扶持を」だったことになる。
 しかし、そんな不安定要素を燻らせた現時点での独立は時期尚早で、今回の投票結果は正解だったと言えるかもしれない。なまじ独立を果たしてから間もなく破綻したりすれば、「それ見たことか、どんなに理不尽な扱いをされようと、やっぱり大国から離脱するなんて無謀に過ぎる話なんだ」という保守的見解が以前にも増して強まりかねないからだ。ちょうど、突っ走りすぎた朝日新聞の誤報が、「それ見たことか、やっぱり慰安婦問題は間違いだ、そもそも慰安婦自体が存在しなかったんだ」との勘違いな増長を極右勢力に許すように。あるいは、女性閣僚たちの相次ぐ不祥事で「そら見ろ、だから女はダメなんだ」といった女性蔑視むき出しの暴論がますます幅を利かせるように。
 ただし、体勢を万全に整えるまでの暫定措置ならともかく、いつまでも「大きなもの」に頼っていると、目先の「ラクさ」と引き換えに「もっと大きなもの」を掠め取られてしまうのだ。そう、アマゾンやグーグルが快適なサービスを提供してくれる裏で、我々の詳細な個人情報を根こそぎ奪い去っていくように。そして、原発や基地が地元経済に潤いをもたらすと見せかけて、「生き物」や「地球」を後戻りのできない泥沼へと引きずり込んでいくように。


 この秋、イスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国」が、イラク・シリアばかりか全世界を呑み込みそうな勢いである。

 グローバルな経済格差や人種差別が顕著になり、それがテロの温床であり続ける。そこから立ち現れた最強のテロ集団に、現状に絶望した若者たちが世界中から吸い寄せられる。イスラム信仰心など皆無なまま、ただ破滅的な厭世気分から「巨大テロリスト」の推し進める殺戮行為に身を捧げようとする若者たちは、「それ見たことか、こんな奴らがいるからこそテロ対策をもっと強めねば」などと息巻く連中と、一層のテロ勢力拡大を目論む「大きなもの」の双方にとって、さぞかし“使い勝手のいいカモ”だろうが、いずれにせよ、それは資本主義の地球規模での行き詰まりをまざまざと見せつける風景である。
 テロという手段自体が「寛容と慈悲」のイスラム教における本質的錯誤であるうえ、制圧した地域の油田収入や人質誘拐の身代金などから成る潤沢な資金と、インターネットを駆使した広告戦略によって肥大化するという、まさに欧米式資本主義そのものの手口は、二重の意味で本来の「イスラム教」から大きく乖離したものであり、そんな「イスラム国」を根絶やしにするつもりがすっかり攻めあぐねている欧米諸国の姿は、あたかも必死に“自らの影踏み”をしているかのようだ。
 己の影を完全に消去する方法など、当然ながら一つしかない。そう、己自身が完全に消え去ることである。


 もはや「イスラム」とは言えない「イスラム国」、本来的に「敵」でも何でもない「敵国」――何においても、多様性を広げるのはいいにせよ、「ここを外せばそのものではなくなる」という“絶対不可欠要素”がある。
 もともと「経済」とは、“経世済民(世の中を治め、人民を救う)”を意味する言葉である。権力の横暴から逃れるべき民主化デモや独立運動にブレーキをかけたり、格差をなして若者たちを狂気の戦場へと追い詰めたりする時点で、そんなものは「経済」と称するに値しない。
 そして、基地や原発も含めた「権力の横暴」を立場の弱い者に押し付けなければ成り立たぬような世の中など、もはや「世の中」とも呼べないのだ。言うまでもなく、「世の中」とは“みんなのもの”だから。


'14.秋  東雲 晨





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