映画監督・大島渚氏の作品に、『忘れられた皇軍』というテレビ・ドキュメンタリーがある。彼の一周忌にあたる今年1月、その伝説的な作品が51年ぶりに再放送された。'63年8月に日本テレビの「ノンフィクション劇場」というドキュメンタリー枠で放映された作品を、日本テレビ系の「NNNドキュメント'14」が『反骨のドキュメンタリスト〜大島渚「忘れられた皇軍」という衝撃』なる番組内でノーカット放送したのだ。

 大日本帝国の兵士として戦争に駆り出され、失明したり手足を失ったりした在日韓国人の傷痍軍人たち。日本のために戦って負傷したのに、日本人の元兵士には与えられる軍人恩給が支給されない。戦後、韓国が独立し、在日韓国人は韓国籍に編入されたからだ。そのため、彼らは生計を街頭募金に頼るしかない身の上である。
 「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」を名乗る彼らは、日本政府に補償を求め、首相官邸や外務省へと陳情に行くものの、「戦後は韓国籍になったから」という理由で突っぱねられる。とは言え、韓国代表部に赴いてみても、「日本の戦争で負傷したのだから、日本政府に要求すべき」との回答が。外務省前で押し問答する彼らを尻目に、通りかかった吉田茂・元首相が涼しい顔で車に乗り込み走り去る場面は、「国家なるものの酷薄さ」をいみじくも象徴している。そして、政府がダメなら、と今度は街頭演説の形で道ゆく市民に支援を訴えるも、それを遠巻きに見やるまばらな聴衆たちの表情は、概して冷ややかで無関心なものである。
 報われない活動の後、疲れ果てた彼らはささやかな宴席を囲むが、その最中に口論が始まる。〈心配していた通りだ。いつもこうなる。この悲しい争い。仲間にしかぶつけることができない、やり場のない怒り。これは醜いか。可笑しいか〉(ナレーションより)。やがて、両目を失った一人の男性が激昂し、サングラスを外してカメラに顔を曝す。〈目のない目からも涙がこぼれ〉(ナレーションより)、「俺のこの顔をよく見ろ!」と言わんばかりに眼球のない両目を指で押し開く。そのやり切れない形相を、画面はひたすらアップで映し出す。作品中、最も衝撃的といわれるシーンである。
 人種差別に苦しめられた黒人ジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーの痛烈な演奏が全編に流れ、被写体の憤激に肉迫するべくクローズアップ映像で埋め尽くされたこの作品は、大島監督の思いが集約されたナレーションで幕を閉じる。
 〈今、この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない。日本人たちよ。私たちよ。これでいいのだろうか。これで、いいのだろうか〉

 『忘れられた皇軍』放映後のインタビュー部分で、ジャーナリスト・田原総一朗氏はこう語る。「『もしアメリカ軍が日本に上陸してきたら切腹しろ』と、(戦中は)切腹の方法まで習った。それが、敗戦したら言うことがガラッと変わる。そこで『国家は国民を騙すもんだ』という気持ちが大島さんの中には強烈にあって、つまり国家は嘘つき、国民を騙す、国家は悪いもんだと。そして、この在日の元兵士たち(の姿を通して)、『日本人、あなたたちも実は騙されてるんだぞ』と、大島さんは国家だけでなく日本人に向けても怒りをぶつけたんだ」。
 また、映画監督・是枝裕和氏による見解は以下のとおりである。「大島さんが生涯、批判し続けたのは被害者意識というものだった。『あの戦争は嫌だったね。つらかったね』と、自分たちが何に加担したのかってことに目をつぶって被害意識だけを語るようになってしまった日本人に対して、『君たちが加害者なんだ』ということをこの番組で突きつけている。その強烈さに、見た人間たちは打ち震えた」。 
 そこからさらに踏み込んで推測すれば、大島監督はここまで言いたかったのかもしれない。「騙す国家も騙される国民も悪いけれど、本質的にはどちらも等しく“敗者”なんだ。とりわけ戦争などという究極の愚行において、勝者なんか元々いないんだ、戦勝国や敗戦国をひっくるめて、誰も彼もが敗者なんだ」。
 そして、今のテレビに対し、両氏はこんな風に注文している。
 「たとえ8割の人間から支持されなかろうと、2割の側で何ができるかを考えるメディアこそがテレビであり、それを作り手が意識して、支持されなくてもやる。視聴率が低くても作る」(是枝氏)
 「『もっと言いたいことをちゃんと言えよ、誰に遠慮してるんだよ』と、大島渚なら今のテレビにきっと言うだろう」(田原氏)

 今回の『忘れられた皇軍』の再放送は、右傾化する時勢への警鐘を多分に意図したものだろう。ただし、その試みはテレビ制作者の気概を示す一方で、現在のテレビが抱える「また別の問題点」をも浮かび上がらせた。
 '60年代、この作品を世に問うた「ノンフィクション劇場」は毎週21〜22時台に放送されていたが、現在の「NNNドキュメント」は地上波だと深夜の放送である。そんな時間帯にこの種の番組を観たり録画したりする視聴者はもともと問題意識の高い層であり、それ以外の視聴者層の目に触れて問題意識を喚起するチャンスなど端からないまま終わってしまう。これでは「“2割の側”の得意客だけを相手に深夜営業している」も同然で、国家や社会と(ポーズだけでなく)本気で火花を散らすような“ヤバい番組”を作れば作るほど、「今の日本のテレビなんて、しょせん真夜中にしか吠えられない」と証明する皮肉なジレンマに陥ることとなる。


 『忘れられた皇軍』再放送の数日後、同じ日本テレビ系で連続ドラマ『明日、ママがいない』(水曜22時)がスタートした。児童養護施設を舞台にしたこのドラマは、施設長が子供たちに「お前たちはペットショップの犬と同じだ」などと暴言を吐く場面や、赤ちゃんポスト出身の子につけられた「ポスト」というあだ名に対し、全国里親会、全国児童養護施設協議会、それに「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を設置する慈恵病院(熊本市)が「子供や職員への偏見を与える」として放送の中止や内容の改善を求める騒ぎとなった。
 それについて日本テレビは当初、「このドラマでは子供たちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子供たちの視点から『愛情とは何か』を描くという趣旨のもと、 子供たちを愛する方々の思いも真摯に描いていきたいと思っております。是非、最後までご覧いただきたいと思います」とのコメントを発し、放映中止や内容変更には応じなかったものの、第3話でスポンサー8社がすべてCM放送を見合わせるという異例の事態を受け、内容の見直しを明言するに至った。
 一般視聴者の番組への意見としては「あくまでフィクションなのだから、あまり目くじら立てると表現の自由が損なわれる」「実際に傷ついている人がいる以上、謝罪するのは当然だ」などと賛否が渦巻く中、次のような指摘が最も妥当なものだと言えよう。「警察や病院や政界など、一般の人にとっても情報が多い業界ならともかく、児童養護施設のような実態の分かりにくい世界については、描かれ方によって視聴者の誤解を生みやすいため、制作には慎重さが必要である」。
 だが、そもそもそういうレベルの糾弾を受けている時点で、すでに日テレの負けである。しかも、視聴者からのクレームにスポンサーが反応し、それに影響されて番組内容を改めるという、テレビとして最悪の失態を演じてしまった。せっかくの『忘れられた皇軍』の「半世紀ぶり再放送」直後というタイミングからしても、これは実にもったいない話である。児童虐待や里親制度などをテーマにもっと高次元な「物議の醸し方」をした上で、外圧に屈せず主張を貫き通していれば、日テレは「今の日本のテレビだって、真夜中じゃなくても吠えられる」可能性を示せたかもしれないからだ。
 それとも、やはり『明日ママ』の目的は問題提起でなく、脚本監修を務める有名脚本家による「視聴率狙いの話題づくり」に過ぎなかったのか。だとしたら、『皇軍』の再放送と合わせて、今のテレビの“深夜限定の吠えっぷり”をわざわざ強調したようなものである。


 2月9日に投開票された東京都知事選は、大方の予想どおりの結果に終わった。「大雪のせい」では済まされない超・低投票率の中、「脱原発都知事」誕生は幻と消えたが、“勝てなかった”のは脱原発陣営だけでもないだろう。

 格差社会を生んだ新自由主義を「つい先日まで」さんざん批判してきたはずの識者たちは、新自由主義の権化ともいえる人物が俄かに脱原発を唱え始めた途端、いとも簡単に飛びついた。「原発推進」と発想の根を同じくする新自由主義から未だ訣別していない人物に「脱原発」を託す有様は、景気回復を願うあまり実体の怪しいアベノミクスとやらに縋ってしまう庶民心理と同じくらい悲愴である。
 しかも、“本来の”脱原発候補では地味すぎて「勝てない」からと、「勝てる(と彼らが踏んだ)」元首相連合への一本化を迫るという、なんとも“失礼な”振る舞いに出た。「『良い商品』を出すためにも、まずは『売れる商品』を」などと利いた風な口をきく会社は、いつまで経っても「良い商品」なんて出せないというのに。
 実際、フタを開けてみれば、脱原発候補二人の票を足しても「本命候補」に届かないばかりか、元首相連合は“本来の”脱原発候補よりも下位に甘んじた。かくして、自分の所属する政党が下野した「つい先日に」さっさと見限って出て行った卑怯者と、その見限られた政党とが、互いの打算のためだけに“復縁”を演出した、そんな「本命候補」が勝利した訳である。
 無節操と無節操がぶつかり合えば、より悪質な側に軍配が上がるのは世の常であり、また「もっと投票率が高ければ……」との仮定もおよそ意味を成さないだろう。「大雪のため外出不能」というならともかく、この期に及んで棄権するような有権者に、大した選択など望むべくもないからだ。

 ただ、いずれにせよ、今回の新都知事はあくまで「表層上の勝者」であり、こんな粗雑な選挙において「本質的勝者」など、候補者どころか都民や国民をすべて含めても一人としていないだろう。
 そして、大雪よりはるかに寒々しい社会風景がこの国に広がり続ける責任は、「深夜にしか吠えられないテレビ」のみならず、問題意識を自ら生み出せない民衆、つまり我々一人ひとりも等しく負っているはずだ。


'13-'14.冬  東雲 晨





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