9月16日、日本列島を襲った台風18号は、とりわけ関西地方に甚大な被害をもたらした。
 「経験したことのない暑さ」「数十年に一度の大雨」……もはや“常態化”した異常気象に見舞われるたび、東日本大震災を契機として俄かにクローズアップされ始めた「コミュニティ(地域社会、共同体)での支え合い」が、その重要性をじわじわと増していく。

 9月4日、最高裁大法廷が婚外子(結婚していない男女間の子供)の相続差別を「違憲」と判断した。「婚外子の遺産相続は結婚した夫婦の子の半分」という、明治時代から続く差別的な民法規定を改めよ、との司法の声である。子供の出生による差別をなくすため、この歴史的判断を受けた国会での法改正が早急に望まれる。
 婚外子の占める割合は、欧米諸国が4〜5割なのに対し、日本では2.2%――この差そのものの是非はともかく、「ちゃんと結婚して子供を産むべき」という伝統的な家族観が根強く残り、子育て環境も整っているとは言えない日本社会では、もし法が改正されたとしても婚外子を肯定する空気などそう簡単には浸透しないだろう。自民党議員による「不倫を助長する」「家族の絆を弱める」といった“いかにも自民党”なズレた反対意見は論外としても。
 ただ、着目したいのは、今回の最高裁判断によって「『家族』の概念が変わる可能性」である。
 これまで日本で「良し」とされてきた結婚制度では、いったん結婚してしまった後で夫婦間に重大な不都合が生じても離婚するのは容易でなく、また、結婚すると同時に舅姑や親戚といった「なぜか当然のように付随する人間関係」に煩わされることも多々ある。しかし、法的な「結婚」に囚われず、例えば社会学者・伊田広行氏の言う「(同性愛も含めて)気の合う仲間や友人を『家族』とみなすような風潮」が広まれば、そんな理不尽な窮屈さとは無縁でいられるし、結婚生活に不可避とされてきた“自己犠牲感”も大幅に弱まるだろう。
 さらに踏み込んで言うなら、それは血縁至上主義からの解放を意味するだけでなく、「郷土や生家に無理に縛られるより、愛着を感じる地域で波長の合う人たちと生きる方が自然だ」という“開かれたホームグラウンド観”にもつながっていく。
 日本人の結婚観が今後ゆっくり変わっていけば、それは「新たなコミュニティ形態」を普及させるかもしれない。

 9月15日、プロ野球・東京ヤクルトスワローズのウラディミール・バレンティン選手が56号ホームランを放った瞬間、シーズン最多本塁打記録がおよそ半世紀ぶりに塗り替えられた。従来の記録「55本」は、言うまでもなく王貞治氏によるものである。
 この「55本」は日本球界における“聖域”とされ、特に外国人選手がそこに迫るたび、“侵入”をことごとく阻まれてきた。なかでも象徴的な“事件”として、'85年のバース(阪神)は54本目、'01年のローズ(大阪近鉄)、'02年のカブレラ(西武)は55本目を打って以降、残り試合でいずれも王監督率いる相手チームから敬遠攻めに遭い、「誰がバッテリーに指示を出したのか」大いに憶測を呼んだ。
 球界では「王さん本人の采配でなく、周囲が過剰忖度しただけだ」との王氏擁護的な見方が主流であるものの、今回の新記録達成に対し王氏が好意的なコメントを寄せていることを含めても、はっきりした真相は分からない。が、ある著名なプロ野球OBが漏らした「新記録は日本人に達成してほしかった。外国人にやられるのは日本の恥」という“本音”がファンも含めた従来の総意で、それが外国人による記録更新を長らく忌避してきたのだとしたら、そんな“狭量な聖域”の方がよほど「日本の恥」である。
 今季のバレンティンは圧倒的にホームランペースが速く、まさか20試合近くを残して勝負しない訳にいかなかったという事情もあろうが、相手チームにもファンにもかつてのような“アレルギー”は感じられなかった。バレンティン選手の新記録達成シーンは、日本プロ野球界を取り巻くひとつの「コミュニティ」が、ある種の成熟や洗練を見せたシーンでもあったと言えよう。

 9月11日、日本が尖閣諸島を国有化してから一年が経った。日中両国が互いに領有権を一歩も譲らぬまま、国交正常化以来「最悪」といわれる関係にはいまだ改善の兆しが見られず、日本ではタカ派政権に軍国主義政策を推し進める格好の口実を与え続けている。
 歴史をひもとくと……1895年、日清戦争に勝利した日本は尖閣諸島を編入するが、第二次大戦中の1943年、連合国の米・英・中がカイロ会談で対日戦争勝利後の日本の領土問題について協議し、「日本が中国から奪った地域は中華民国に返還する」との宣言がなされる(カイロ宣言)。1945年、敗戦した日本が受諾したポツダム宣言にはカイロ宣言の履行が謳われ、「日本国の主権は本州、北海道、九州、四国に限定され、その他の主権の及ぶ島々は連合国が決める」と記されている。つまり、この時点で尖閣諸島は中国に返還された。……と、ここまでは明白な歴史的事実だが、その後もサンフランシスコ講和条約などを巡って尖閣領有権は複雑な動きを見せ、日中双方の歴史認識が噛み合わないまま現在に至っている。
 そういう経緯を知ってか知らずか、日本政府は決して国民に教えようとしないし、学校の教科書にも載ることはない(そもそも、教科書などという退屈で権威的な書物の記述ひとつに生徒が大きく影響されるとしたら、そんな純真さもまた由々しき問題だろう)。結果、日本の国民は背景を知らぬまま闇雲に「尖閣は我が国のものだ」と叫び、中国側もまた理性的な対話や交渉を試みることなく同じようにがなり立てる。そんな両者がそれぞれの立場から自分の正当性ばかりを主張し合ったところで、問題解決など何年経っても叶うはずがなく、いずれ行き着く先には愚かを極めた「共倒れ」が待つのみである。
 東アジアの安定・平和に不可欠なのは、互いを理解し尊重し合える「コミュニティとしての東アジア」を成立させることであり、間違ってもアメリカの「おためごかしな介入」に身を委ねることではない。

 自国だから、自国民だから、自国では今までずっとそうだったから、すべて無条件で「良し」とする――ナショナリズムやレイシズムと呼ぶにも及ばぬ、あまりに能天気なメンタリティ。統治者の支配力増強にひたすら貢献するばかりか、正当に誇るべき自国文化をも結果的に貶める「無垢さ」など、偏狭な排外主義を超克した「コミュニティ」を作るべき今の時代には、もう必要とされていないのだ。

 9月7日、2020年夏季オリンピックの開催地が東京に決定した。経済効果だけが招致目的であるのを隠すため、無理やり「売り」をこじつけたような空々しいプレゼンテーションの末、参院選での自民党と同じ“消去法でのサバイバル”を果たした訳である。
 慰安婦発言やナチス発言で政治家の絶望的な国際感覚不足を露呈した上、今この瞬間も放射能汚染水を海に垂れ流している国――そんな国の首都に世界を「おもてなし」させようとする“狂気の沙汰”の裏には、IOCによる何らかの意図が窺える。例えば、「マドリードの経済危機やイスタンブールの政情不安などより遥かに深刻な病巣が、東京、そして日本にはまだまだ隠されているはず。これから五輪開催国として世界の注目に曝すことで、その内実を暴き出し、国際社会に広く知らしめてやろう」というような。
 ただし、それは単に意地の悪い“日本叩き”などでなく、「世界全体というコミュニティ」における“疾患治療プログラム”の一環であるかもしれない。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五大陸を示す「五輪マーク」が、その本来の象徴的意味を留めているとするならば。


'13.秋  東雲 晨





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