先ごろのフランス大統領選は、左派最大野党・社会党のオランド氏が現職サルコジ氏を決選投票で破り、政権交代を果たした。これに先がけた第一回投票では、人種差別や排外主義を掲げる極右政党・国民戦線のマリーヌ・ルペン党首が躍進したが、そんな不穏な空気の中、今から十年前に反ファシズムの著作としてベストセラーになった寓話『茶色の朝』が、近く新装版として再出版されるという。
 『茶色の朝』では、法律によって茶色いペット以外の飼育を禁止する世界が描かれる。茶色以外のペットが処分されることを人々が軽視するうち、人間にも茶色が強制されはじめ、最終的には社会の自由そのものが奪われる、という内容である。この作品は、マリーヌ氏の父であるジャン = マリー・ルペン前党首が2002年の大統領選で台頭した際、フランス人作家・社会学者のフランク・パブロフ氏が警告を込めて発表したものだが、今回の再出版にあたり、パブロフ氏は「マリーヌ氏から極右の怖さは感じられないが、最初は重大に見えないことが恐ろしい結果に繋がり、気づいたときには手遅れになることを知ってほしい」と語っている。
 2003年発行の日本版には哲学者・高橋哲哉氏からのメッセージも掲載されており、それによると、ヒトラー率いるナチ党が初期に茶色のシャツを制服として着用していたことから、フランスでは「茶色」はナチスを連想させる色であり、そのイメージがさらに広がって、今日ではファシズムや全体主義と親和性の高い「極右」にも結びつく色なのだそうだ。
 徐々に周囲が茶色く染められていく中、誰もが多少の不安は感じながらも、「茶色に守られた安心、それも悪くない」(本文より)とばかりに遣り過ごし、流れに逆らわず身をゆだねるうち、いつしか事態は破局を迎えてしまう――こんな危うい傾向は、遠いフランスのみならず、まさに3.11を境に日本社会でもクッキリと可視化されたものである。

 北海道電力泊原発3号機の定期検査入りによる停止に伴い、稼働している日本の原発がゼロになった5月5日、東京・芝公園で「原発ゼロの日 さようなら原発5・5(ゴーゴー)集会」が開催された。ルポライター・鎌田慧氏や作家・落合恵子氏らが呼びかけ人となったこの集会当日はさわやかな好天に恵まれ、国内原発54機がすべて止まるという歴史的な日を祝い、さらにそこから脱原発への流れを加速させようとの思いを胸に5500人が参加した。
 福島第一原発事故以来、日本各地での反原発運動が目に見えて盛んになったが、相変わらずほとんどの大手マスコミはこの種の動きに黙殺を決め込み、今回の「5・5集会」でも取材記者の姿が見受けられたのは「脱原発」姿勢を前面に出す東京新聞くらいである。ただ、この一年でよく言われてきたように、市民運動の「性質」にもこれまでとは明らかな変化が感じ取れる。つまり、そこにはゴリゴリの“反社会闘士”たちだけでなく、いかにも“市井の人々”や、小さな子供を含む家族連れの姿も目立ち、かつての「デモ」や「集会」特有の閉鎖性や暴力性とはかけ離れた、ある種の「日常性」すら漂う空間と化しているのだ。
 5月5日は、言うまでもなく「こどもの日」である。原発容認社会の狂気が露わになった今、それでもなお、放射能汚染の最大の当事者というべき「こどもたち」に、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と、これまでどおり世間の出来事に無関心なまま“表面上は安全そうな場所”でこの日を過ごさせるのか、それとも、こんな集会の成否自体はともかく、“茶色い連中”に異を唱えるのは当たり前だということを自然に体感できるような場を用意するのか……どちらがより彼らのためになる「こどもの日」なのか、親たる者は真摯に考えるべきところであろう。


 『失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話』(ETV特集)という番組が、4月に放映された。自らの出身地である宮城県石巻市をも襲った東日本大震災後、「言葉は3.11を表現できなかった。われわれの言語表現の安っぽさが暴かれた」との虚しさに打ちひしがれた作家・辺見庸氏は、言葉への信頼を取り戻す手がかりの一つとして、友人である大道寺将司死刑囚の全句集出版に奔走する。
 極左テロ組織・東アジア反日武装戦線“狼”部隊のメンバーとして、東京・丸の内の三菱重工爆破を含む3件の連続企業爆破事件を起こし、逮捕以来じつに37年間を獄中で暮らす大道寺。世間から完全隔離された拘置所で、自己批判と重病に苛まれつつ繰り出される俳句の数々を、辺見氏は「大道寺の体内と記憶から絞り出された、自発的な供述調書」と表現する。
 紆余曲折の末、全句集は『棺一基』(太田出版)という書名で4月に刊行されたが、そこには、昨夏に詠まれたこんな一首も収められている。

  暗闇の 陰翳刻む 初蛍

 「大道寺はこの一句でおそらく福島県を想ったのではないか。妖しい放射線に汚れた宵闇で、あたかも放射線の波動のように明滅する蛍火を、確定死刑囚の独居房で瞑目して想ったのではないだろうか」(辺見氏による『棺一基』序文より)。塀の内に在りながら、現実社会を生きる我々などより遥かに高い「現実への拮抗性」――外界から一切閉ざされた長い長い拘禁生活のなかで、衰えるどころかますます研ぎ澄まされる俳人の“想像力の矢”に、辺見氏はただただ震撼するのみである。

 大勢がひとところに集まって現状打破への叫びを上げる、あるいは、絶対的な孤独の裡から強靭な言葉の矢を放つ――この世から“茶色い連中”を駆逐するには、多様な角度から多様なやり方で揺さぶりをかけ続ける他ないのかもしれない。


 ……と、ここで話を終えてしまうと、「茶色」のイメージがひどく悪いままになるので、念のため付記しておくが、ナチスの制服や「極右」が茶色いのはあくまで“人間のお仕着せ”であり、それ以前に、茶色とは土の色、自然の色、「母なる大地」の色である。そして、若き日に“自らの意志で”大罪を犯し、国家から「死刑囚」の名を着せられた人物が、それ以前に、深く鋭い感性をたたえた「秀逸なる表現者」であったりもするのだ。


'12.春  東雲 晨





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