桜咲く季節がやって来た。今年は日本の桜がアメリカに植樹されて百周年を迎えるそうだが、桜の中でも「日本の春」を象徴的に彩るソメイヨシノは、すべて同じDNAから成る「クローン植物」だと知られている。
 江戸末期から明治初期にかけ、江戸・染井村(現在の東京都豊島区)で造園師や植木職人の手により育成されたといわれるソメイヨシノ(染井吉野)。一本の原木をルーツとするこの植物は、異なる品種を人工的に掛け合わせて造られたため、種子で自然に増えることができず、接ぎ木や挿し木によって増やすしかない。つまり、人間の手を借りて延々と増殖し、いま全国各地に咲き誇るソメイヨシノは、いわば全てが「同じ花」であり、また江戸時代の人々が見ていたのと全く「同じ花」を、今の世の我々も目にしていることになる。

  ソメイヨシノとは、時空を超えた同一の花。

 人間に例えれば、祖先から子孫へと代替わりすることで生命が脈々と受け継がれるべきところを、ひとりの祖先当人がずっとこの世に生き永らえている、そんな異様な現象である。過ぎ去ったはずのものが、在りしままの姿を今にとどめる―― 一斉に開き一斉に散るあの光景が、見る者を狂おしい心地にさせるのは、その辺りの不自然さゆえかもしれない。


 1980年代の洋楽ビデオクリップを紹介する番組として、テレビでは数年前から『洋楽倶楽部80's』(NHK)が不定期放映されているが、好評を受けてか、この春にはNHK‐FMで『洋楽80'sファン倶楽部』というラジオ番組も始まる。
 1981年の「MTV」開局を機に、英米を中心とするロック・ポップ系ミュージシャンは新曲リリースのたび趣向を凝らしたプロモーションビデオを制作するようになる。音楽を「耳で楽しむ」から「目で楽しむ」時代へと劇的に移行する中で、マイケル・ジャクソンやマドンナ、カルチャー・クラブやデュラン・デュランなどに代表される人気アーティストが続々と登場、多種多様な「音と映像の花」が咲き乱れることになった。そのため、'80年代の洋楽シーンは、とりわけ当時10代前後だった日本の音楽ファンからある種の「聖域」と認識され、四半世紀を経た今もなお“別枠”的な支持を集めている。しかもリスナーは、ビートルズの楽曲が提供してくれるような「聴く度ごとの新しい発見」を求めるのでなく、あくまで“当時のままの姿”を楽しむ対象と捉えている。これは「過ぎ去ったものを今に呼び戻す」作業だともいえよう。
 ただ、80'sの洋楽がかくもファンを惹きつける陰には、それ自体の魅力もさることながら、もうひとつ重要な要素が潜んでいるように思える。それは、テクノロジーの進歩がもはや飽和状態に達したと感じられた'80年代、つまり「これ以上の進歩は人間や世の中のためにならない」「どうやら我々は行き着くところまで行ってしまった」と誰もが無意識に察知しはじめた“臨界期”への、痛々しげなノスタルジーではないだろうか。


 洋楽80'sの一時代が過ぎてもこの世は時を刻み続け、テクノロジーはさらに加速度的な進歩を遂げていく。従来のエネルギーから再生可能エネルギーへの転換を図るうえでも然りだが、我々がより良い社会をつくるには適正なテクノロジーの進歩が欠かせない。しかしながら、どんな領域でもそうであるように「負」は「正」を易々と凌駕する。太陽光発電技術の進展などよりスマホの機能向上やミサイルの開発に心血が注がれるという、人間にとっておよそどうでもいいか、むしろ我々を貶める「負のテクノロジー」への市場主義的傾倒が、あながち“'80年代臨界説”が的外れとも思えぬ勢いで幅を利かせる中、それに呼応するかのごとく、時代はある稀有な特徴を露わにし始める。「本質的な時間の停止」、である。

 この国のいわゆる「失われた二十年」で、より深刻に失われたのは「経済」ならず「時の移ろい」。

 たとえば「テレビに出てくる顔ぶれは絶え間なく入れ替わるけれど、よく見れば似たり寄ったりのキャラクターばかり」であるように、表層的には目まぐるしく変転するものの、根源的な“時代の匂い”は何ら変わることがない、もしくは匂いそのものが消えてしまった二十年である。時間の経過につれて推移すべき根幹部分が変化を拒んで凍結し、同じような様相が堂々巡りする時代。
 過ぎ去ったはずのものが、在りしままの姿を今にとどめる――異様で不自然な「クローン時代」が、負のテクノロジーの「人工的作用」により現出したのだとしたら、そんな時世にあちこちで狂おしい風景が飽くことなく繰り広げられるのは、“ソメイヨシノ現象”とでも呼ぶべき摂理なのかもしれない。そして、袋小路から脱却し健全な時の流れを取り戻せるか否かは、やはり「正のテクノロジー」を伴う“人間の手”にかかっているのではないだろうか。


'12.春  東雲 晨





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