“栄光の巨人軍”のお家騒動は、法廷へと舞台を移した。――プロ野球・読売ジャイアンツのコーチ人事をめぐって、球団代表兼GM(ゼネラルマネジャー)の清武英利氏が、渡辺恒雄球団会長を記者会見で公然と批判。これを受けて球団から職を解かれたうえ訴訟まで起こされた清武氏は、自らの正当性を主張するべく逆に提訴へと踏み切った。
 マスコミは今回の騒動を「ただの内輪揉め」に矮小化したがるが、ナベツネ政権ほどの強力な独裁体制に風穴を空けようかという動きが多方面に大きな影響を及ぼすのは紛れもない事実であり、それを単なる内紛として扱う報道姿勢からは、「組織への反乱ムード」を圧し潰そうという意図すら窺える。また、「プロ野球最大のイベントである日本シリーズ期間中は、騒ぎを起こすべからず」という“球界の不文律”を破った清武氏への非難も上がったが、そんなに日本シリーズが大事なら、ギリギリでリーグ3位に滑り込んだチームが時の勢いだけで勝ったりもする茶番劇に「日本シリーズ」の名を冠する現状の方が、よほど大きな問題だといえよう。
 「もし清武氏が裁判に負けたとしても、巨人のイメージを著しく貶めるという彼の“真の目的”は充分に達せられるはず」とはある弁護士の見解だが、これは多分に的を射ているだろう。いずれにせよ、日本屈指の巨大権力者であり、なおかつ長らくプロ野球を私物化してきた“あの”ナベツネが、こともあろうに自社内の人間から突き上げられるという、今まででは絶対に考えられなかった事態は、極めて今日的なある種の「ヒビ割れ」を如実に象徴するものでもある。

 この晩秋、落語家の立川談志さんが喉頭がんで亡くなった。戦後でいえば岡本太郎などから連なる「反逆者の系譜」が、またひとつ途切れたことになる。今から三十年ほど前、真打ち制度をめぐって師匠の柳家小さん氏が率いる落語協会と対立し脱会、「立川流」を創設して自らが家元を名乗った談志さん。そんな過激な行動は当時としても難業だったろうが、ましてや昨今の日本では、およそ「ありえない話」である。
 高度経済成長期を経て管理社会化が進むにつれ、実際のサラリーマン社会はもとより、あらゆる業界がサラリーマン化し、大きな組織に刃向かっては生きていけないかのような風潮がすっかり定着してしまった。スポーツ界や芸能界などには「はみ出し者キャラ」を売りにする存在が今でも居るには居るものの、彼らとて実際に組織の枠からはみ出てはおらず、せいぜいが所属先公認の、“ポーズとしての”はみ出し者である(そもそも体制側から好感を受けている時点で、反逆者とは呼べない)。そして、談志さんのような“時を越えて実在する純正アウトロー”がこの世から消え去るたびに、「ああいう人物はもう出てこないだろう」などと、我々は通り一遍の感慨を抱く。もちろん、己のことは棚に上げて。
 しかしながら、今度の世界的大不況や東日本大震災は、思わぬ副産物をもたらした。
 バブル以降の日本での慢性不況はむしろ日本人持ち前の保守化を促し、安定した境遇へとしがみつきたがる「サラリーマン気質」を強固にする一方だったが、これほどまで不況が壊滅的になった上、いつどこに大地震が再来するかもしれない危機感が加わると、さすがにその「安定した境遇」とやらも見当たらなくなってしまった。もはや「サラリーマン社会」的な在り方自体が立ち行かなくなり、“巻かれるべき長いもの”や“寄るべき大樹”などは既に遺物と化しつつあるのだ。
 そこに、「アラブの春」や米ウォール街での反格差デモ、さらには「権威に従順」といわれるロシア人までもが反政府デモに立ち上がり、そんな潮流にも背中を押されてか、震災後の日本では反原発運動がかつてないほどに盛り上がり始めている。ようやく理不尽に対する「抵抗の萌芽」が見えてきたこの国において、「強者への忍従」が常識でなくなる日もそう遠くはないはずである。
 今までの感覚を拭い去れない大企業は、自らのデカさゆえ氷河期になす術もなく絶滅した恐竜のごとき末路を辿るだろうし、そんな大企業のお零れに与るしか生きる道のない下請業者もまた、淘汰されるのをじっと待つのみであろう。「自分を殺して会社に殉じれば、何とかメシを食っていける」とはいえない局面に差しかかった今、特別な才能の有無にかかわらず、個々人がある意味で「独り立ちする」という、人間が本来持つべき「タフさ」を要求される時代に、我々は否応なく直面させられているのだ。

 だがその一方で、国や政府は適切な保障を国民に約束しなければならない。格差や雇用対策はもちろんのこと、国民を放射能汚染から守ったり、自国の産業を過度な市場競争から保護したりするのは当たり前の話だし、それは一人ひとりの独立心とはまた別問題である。それを、原発やTPPなどという、およそ賛否を議論するまでもないような事項においてことごとく拙(まず)い方を選択する「お上」に、我々はどう対処すればいいのか。
 彼らとしては、目の前で抗議する者の姿は見えるだろうし、その声も聞こえるだろう。が、たとえ感情で揺さぶろうと、あるいは理性に訴えようと、彼らの心や頭にまでは決して届かない――これが信じがたい現実だと捉えるべきである。自然や人間や生命よりも、カネや効率や利便性に“正義”を見出す、信じがたい人たちが相手なのだ、と。
 照準の狂った拳銃では、いくら至近距離からブッ放したところで的を射ることができない。だからこそ我々は、何らかの形で“照準の合った”銃を、常に血まなこで探し続ける必要がある。もちろん、「本物の銃を手にとる」などは論外として。

 ただし、そんな彼らの姿勢は、プラス方向に転用することも可能である。例えば我々が何らかの「嫌な流れ」や「悪い圧力」に相対した際、もしも抗ったり屈したりするなら、前提としてそれらを「真に受けている」ことになる。つまり、敵側からしっかり「照準を合わせられている」わけであり、その状態を意識的に解除しておくことができれば、我々は見違えるほど“燃費の良い人生”を送れるのではないだろうか。そう、民草の狙撃をかわし続けるお偉方が“卑しい安楽”を貪っておいでなのとは全く逆の次元において。


'11-'12.冬  東雲 晨





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