「プロレス」……この字面から多くの人が反射的に連想する言葉がある。そう、「八百長」である。プロレスは他のスポーツや格闘技のような「筋書きのないドラマ」でなく、あらかじめ結果が決まっている、というものだ。ある程度目の肥えたプロレスファンは、これがほぼ事実であると知っている。それどころか、試合開始から終了までのシナリオ、さらにはその試合が組まれるまでのストーリーなど、ほとんどすべてが作られたものだということすら、ちゃんと心得ているのだ。
 またプロレスには、相手に最大限のダメージを与えると見せかけながら実は最小限のダメージしか与えないよう力をセーブして攻撃し、なおかつ相手の攻撃はまともに受け止めていかにも効いているようなフリをする、という暗黙のルールがある。つまり、演技をしているわけである。格闘技においては、常に相手を全力で攻め、相手の攻撃は極力かわすのが常識であり、この点でもプロレスと格闘技はまったくの別物といえよう。
 あらかじめシナリオがあり、それに基づいて演じる。プロレスとは一種の「演劇」である。私も含めたプロレスファンは、そういった特質を承知したうえでプロレスに魅了されるのだ。とりわけ会場に足を運んで観戦している最中などは、鍛え上げられた役者たちによるアクション映画を生で鑑賞するような迫力に浸っている。しかも、ひと昔前まではあまりに露骨なデキ試合が多かったものの、最近ではどこまでが約束ごとでどこからが本気なのか判別しづらいシーンが随所に見られ、それを瞬時に見分けるのもまた新しい醍醐味となっている。
 では、なぜ普通の演劇が得ているような市民権をプロレスは得られないのか。それは、プロレスをやる側が真剣勝負だと言い張るからに他ならない。演劇のようにフィクションであることを認めないから八百長呼ばわりされるのであり、「これはショーだ」「格闘技ではない」と表明すれば相応の市民権を得られるはずだ(現にアメリカ最大のプロレス団体・WWEはそういう路線を敷いている)。が、それをした時点で、プロレスの存在価値は大きく揺らいでしまうだろう。市民権を有するメジャーなジャンルは幾つもあるし、自らをアングラと称して市民権を放棄し世間からの白い目に甘んじながら存続するジャンルも珍しくはないが、プロレスは市民権が得られないように自らを設定しつつ「市民権がほしい」と声高に主張する唯一のジャンルだからだ。善良な市民でなく、罪を認めた模範囚でもない、弁解の余地なき凶悪犯が平然と無実を叫ぶことでワルとしての存在感を不動にするようなものである。
 例えば、長らく「オヤジくさいギャンブル」といった日陰のイメージが強かった競馬は、今や多くの女性ファンを擁する“健全な”娯楽へと変貌をとげたが、それはたまたま武豊という人気騎手が登場したおかげであり、競馬界が積極的に市民権を求めたわけではない。だが、プロレスはその逆で、いかなる事態が生じようと“健全な”娯楽にはなりえない形にガッチリ身を包みながら、あえて市民権に執着するポーズをとるのだ。その辺りにプロレス最大の独自性が潜んでいると私は思う。あくまでも世間の白い目に反発する姿勢を崩さず「八百長」と呼び続けられる“徹底した不良ぶり”こそが、プロレスをプロレスたらしめ、ファン同士の共犯者意識ともいうべき連帯感を決定的なものにしているのだ。
 このところ、プロレスラーが格闘家と対戦しては惨敗するという失態を繰り返している。そのたびに「やっぱりレスラーは弱い、所詮インチキだ」と酷評を浴びながらも、敗れた当事者たちが「プロレスこそ最強の格闘技」と涼しい顔でうそぶき、さらなる風当たりをほしいままにする。こういったノリは、まさにプロレスの真骨頂であるといえよう。現にそういう在り方で、決してアングラとは呼ばせないほどの根強い人気を恒常的に維持してきた稀有なジャンルなのだから。
             

'03.夏  東雲 晨





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