本年度アカデミー外国語映画賞を受賞した『未来を生きる君たちへ』(原題:HAEVNEN (=復讐)、'10・デンマーク、スウェーデン)が、このほど日本でも公開された。
 デンマークの学校で毎日イジメに遭う少年エリアスは、医師としてアフリカ難民キャンプに赴任する別居中の父・アントンを慕っている。ある日、転校生クリスチャンがエリアスをイジメから救ったことで二人は親友に。一方、エリアスの心の拠り所であるアントンは、自身の離婚問題や医療現場の荒廃ぶりに頭を悩ませる日々が続く。そんな折、息子たちと父親ともにそれぞれの境遇で「復讐」の機会に直面する。暴力での解決を望まず、ひたすら相手を赦そうとする父親は、息子たちにもそう諭すものの聞き入れられず、また自らもある段階でとうとう堪忍袋の緒が切れてしまう。
 片や子供の軽率な復讐。もう片や大人の、極限まで追い詰められた末の復讐。いずれも相手への仕返し自体は成功しながら非常に後味の悪いものとなり、しかも何ら根本的な解決には至らない。この結果は、「報復の応酬が戦争につながる」という劇中人物の言葉どおり、暴力での復讐の虚しさを物語っている。だが、さらに着目すべきは、どちらのケースでも結局「復讐」に走らざるを得なかったというストーリー設定である。対話での和解など望むべくもないような相手を前にした際、今のところ作り手は「復讐」以外の方法を何ひとつ提示できないと白状し、同時に観客へ向けて「あなたは提示できますか?」と問いかけてもいるのではないか。NATO軍のリビア空爆に対し「欧米には徹底抗戦する。百年でもミサイルを撃ち続ければいい」と言い放ったカダフィ大佐を非難するとき、我々は果たしてその適切な代案を出せるのだろうか、と。
 「暴力ではなく対話で解決を」――確かに尊い理念である。しかし、その遂行が限りなく困難な状況が、現実社会には少なからず存在する。

 なお、数ヶ月前の日本では、この作品と本国でアカデミー出品を争った『光のほうへ』('10・デンマーク)も上映されていた。育児放棄した酒浸りの母親に代わり、幼い兄弟が生まれたばかりの弟に希望を託して育てるものの、ある日赤ん坊が死んだことで二人は深い絶望に沈んでしまう。愛されたことがなく、愛する対象にも突然去られた兄弟は、その後自暴自棄の人生を別々に送るが、母の死をきっかけに再会し、どん底の生活から這い上がろうとする――。
 北欧には「国民幸福度の高い、穏やかな福祉社会」とのイメージが先行しており、事実そういう面もあるのだろうが、北欧の暗く厳しい“別の貌”を描くこの二作からは、「上っ面だけ見て美化するのは簡単だけど、内実はそんなに甘いもんじゃないんだよ」という肉声が聞こえてくるかのようである。

 折しも、同じ北欧のノルウェーで、自国の寛容な移民政策に怒った極右の男が爆破・銃乱射事件を起こした。「イスラム系移民の排斥」を犯行動機に挙げた容疑者は、80人近くもの命を奪うことになった自らの連続テロ行為について、改悛の情など全く示していないという。刑事司法における寛容化政策によって良好な治安を誇っていたノルウェーでの今回の惨劇は、アメリカで惰性的に勃発する銃乱射事件などとは桁違いの衝撃をもたらしたはずである。
 深刻な不景気や格差社会化が世界を覆うこんな時代には、偏狭かつ排他的な宗教心・愛国心に塗り固められた輩が、“自分の居場所を脅かす”外国人や異教徒たちに今後も憎悪を燃やし続けることだろう。また実際のところ、移民の側にも異文化との折り合いを拒絶するような粗野で傲慢な部分が多々あるに違いないが、こういった存在同士の際限なき衝突においても、それこそ互いに気の遠くなるような「寛容」や「赦し」が、やはり唯一の解決方法となり得るのだろうか。それとも、軋轢を高める要因である「世界的な不況や格差化」が多少なりとも改善されない限り、両者間の「寛容」や「赦し」など到底おぼつかないのであろうか。


'11.夏  東雲 晨





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