作家・村上春樹氏が、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式において、20分以上にも及ぶ原発批判のスピーチを行なった。
 「核爆弾を投下された歴史上唯一の国民である我々日本人は、核に対する“ノー”を叫び続けるべきだった。原子力発電は安全かつ効率的な発電システムであるという政府や電力会社の主張に騙され、『原発のない社会は現実的でない』などと思い込まされた結果が、いま我々の前に広がるこの無惨な『現実』である。同じ過ちを繰り返すことのないよう、今こそ我々は『非現実的な夢想家』になろう」――そういった主旨のスピーチである。
 2年前のイスラエルで、村上氏がエルサレム賞授賞式に際し披露した「壁と卵」のスピーチ同様、それに類する発言をする人物は他にも少なからずいるだろうし、内容に格別な目新しさは見られない。また、今回のようなスピーチは「外国で外国人に向けて」ではなく「日本で日本人に向けて」行うべきだという声も、全くの正論ではある。しかしながら、当時のイスラエル政権を批判する「壁と卵」のスピーチを、イスラエル政府要人が見守る現地で敢行したことの意義と同様、「世界で最も有名な日本人」の一人が、原発批判のメッセージを世界的な舞台で発したこと自体に、重要な意義が伏在するとは言えないだろうか。

 俳優の山本太郎氏が原発反対を訴えたことで、出演予定のTVドラマがキャンセルになり、「これ以上は迷惑をかけられない」という本人の意向で所属事務所をも辞めるに至った。まるでベタな漫画のような展開である。日本の(それも中堅どころ以下の)芸能人が国内に向けて反原発など表明したら、いとも簡単に芸能界を干されてしまう。これは言うまでもなく、テレビ番組のスポンサーになるような大企業の大半が原発賛成派であるが故の横暴であり、テレビや芸能界のどうしようもない「ダメさ加減」を物語っているが、資本の論理に弱者が潰される様は、現代社会そのものの縮図でもある。
 しかし、たとえ背後にアメリカの圧力があるにせよ、世界各地で見られる軍事独裁政権などに比べれば、「日本の悪党」がそれほど手強いものだとも思えない。反面教師にすべき父親の背中をこともあろうに忠実に追う息子が、「脱原発は集団ヒステリー」などと軽々しく口にする、せいぜいその程度の手合いである。にも拘らず、貧相な「日本の悪党」にここまで堂々とのさばらせる要因は、それに抵抗する側の圧倒的な“層の薄さ”にあるだろう。
 「われわれ日本人は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。(中略)我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです」(村上氏のスピーチより)。自然災害が頻発する宿命を負う国土において、被災してもその都度めげずに立ち直ってきた日本人。ただしそれは、裏を返せば「何に対しても辛抱強く大人しいだけの日本人」ともいえよう。「日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない」(同)。相手が天災であれ人災であれ、あくまでも怒らず、従順に。岡本太郎がかつて語った民族的メンタリティ、つまり「農耕生活に由来する、万事に保守的で平和主義の弥生式文化」が、いまだ染みついているということか。
 加えて、日本には社会的な事象に無関心を決め込む作家や芸術家も多く、その大部分は事なかれ主義、もしくは体制迎合主義の下手クソな言い換えに過ぎない。そんな文化のもと、社会悪への抗議運動なども国内では局地的・散発的なものに終わりやすいが、国際的な影響力を持つ「ムラカミ・ハルキ」なる存在が、広く海外へ向けて脱原発を呼びかけるという戦略は、「日本の悪党」を外側から揺さぶりダメージを与え得る意味で非常に有効なものであり、自らの立場を理想的な方向へと活用した村上氏には、大きな敬意を表したいところである。

 先にも少し触れたとおり、戦後日本の重大な社会問題には、常にアメリカの影がつきまとう。もちろん、日本の原発推進政策についても例外ではないだろう。そこへ、「アメリカ文学に大きな影響を受けた」とかねてより公言する村上氏が、世界を相手に投げかけた反原発声明。
 「良きアメリカ」からの影響で世界的な知名度を得た日本人作家が、その知名度を駆使して「悪しきアメリカ」の一角から日本を解き放とうとする――彼の小説さながらのアイロニカルな仕掛けによって、日本はアメリカに“一矢報いる”ことができるのだろうか。


'11.夏  東雲 晨





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