大学の入試問題がインターネットの質問サイトに投稿された事件は、仙台の予備校生による単独犯と断定された。たかがカンニングで未成年者を逮捕とは幾ら何でもやり過ぎ、とりわけ「たかがカンニング」を警察にまで届け出た京都大学へは、「自由な学風」が聞いて呆れる「お上頼み」や「度量の小ささ」を揶揄する声も上がっている。
 また、合格を度外視した「冷やかし受験」ならともかく、その予備校生の「どうしても合格したかった」という供述が本音だとしたら、机の下で携帯メールを打つ際の緊張感は、およそ他の受験生の比ではなかったに違いない。が、そんな心臓が軋むような努力をしてまで「自分の合格」だけに執着したこの行為は、いまだ現存する不毛な受験制度そのものに異を唱えるどころか、昨今の「生きづらい世の中」を演出するA級戦犯ともいうべき“過剰な清潔志向”の促進に図らずも一役買うことだろう。ただでさえ息詰まる試験会場を、今後ますます厳しい監視に晒す、という形で。
 そして何より、その非力な行為の武器が携帯電話やインターネットという「お手軽ツール」だったことは、ある意味いかにも象徴的である。

 前世紀末から普及し始めたインターネットは瞬く間に進歩を重ね、いまや国家機密の公開や“革命の伝播”をも可能にしている。
 昨年の暮れ、チュニジアで野菜売りの青年が警官の横暴に抗議して焼身自殺を遂げ、それが民衆の怒りに火をつけてベンアリ独裁政権を崩壊させる「ジャスミン革命」の発端となった。“リーダーなき”市民革命は、すぐさま他のアラブ諸国にも飛び火する。エジプトではムバラク大統領が大規模デモのすえ辞任に追い込まれ、イエメンやバーレーン、アルジェリアやリビアなどでも反政府デモの嵐が吹き荒れる。これら一連の反乱は、そこにフェイスブックやツイッターなどが大きな役割を果たしたことから「中東ネット革命」と称され、とりわけリビアでは、反体制派の動きに最高指導者カダフィ大佐の独裁体制側が応戦し、さらには英仏やアメリカから成る多国籍軍も首を突っ込んで、結局よくある泥沼の戦場を現出している。
 反体制派のリーダーとして革命を成し遂げた者が、権力を握った途端に自らも同じような独裁者と化すことは往々にしてある。渦中のカダフィ大佐など、まさにその典型例だといえよう。では、民衆全体が主役である今回のような「リーダーなき革命」はそんな悪弊に無縁かと思いきや、皮肉にも、もっと粗雑で初歩的な諸問題を浮かび上がらせた。優位な形で闘争の最終局面に差しかかった際、体制側との対話や交渉の担い手が欠落しているため、程よきところで歯止めを利かせることができず極端なまでに「やり過ぎ」て後々に禍根を残したり、現政権を転覆させたはいいものの、以降の暫定政権をどう運営するかでまとまりがつかず新たな火種が勃発したり……要は、支柱なき団体行動の脆弱さゆえ、革命が必ずしも成功裡に終わらないのだ。その辺りに、インターネットという「お手軽ツール」を武器とした革命の限界が感じられる。「ネット」と「勢い」に乗って簡単に広まった革命の限界が。
 誰もが労せずして情報を発信・受信できるインターネット。この最新メディアの根源的な「軽さ」は、集団的暴走に陥りやすい世界的な潮流との親和性がことさらに高いものだといえよう。

 熱しやすきは冷めやすく、速やかに昇り詰めれば凋落もまた早いものである。インターネットがお膳立てした革命は、起こすのが容易であるぶん成果も長続きしないのか。いや、それどころか、あっという間に全世界を席巻したインターネットという存在自体、その落日は思いのほか近いのかもしれない。


'11.春  東雲 晨





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