3月11日、東日本が大揺れに揺れた。マグニチュード9.0、世界史上屈指の巨大地震。死者・行方不明者合わせて数万人にのぼると見込まれる被害状況は、ただただ痛ましい限りである。
 数ある自然災害のうち、昨今の異常気象などは天災より人災の側面が強いが、地震(その影響による原発災害などを除く)は純粋な天災といえる。その地震が、他のすべての自然災害を吹き飛ばしてしまうほど桁外れな存在であることを、あらためて思い知らされた。もともと頭で分かっていることとはいえ、現に圧倒的な力で捻じ伏せられると、もはや絶句するほかない。
 テレビ映像で見る今回の地震は、この上なく獰猛(どうもう)な貌をしていた。津波が一瞬で家や田畑、車や船をも呑み込み、海水が轟然(ごうぜん)と大河を逆流する。山は闇夜に赤々と燃え上がり、その残滓(ざんし)たる煙を夜明けの空が吸い尽くす。文字どおり、地球が打ち震えている――あの世の地獄もかくや、という酸鼻きわまる絵図。「自然との共生」などという長閑な概念を嘲笑うかのごとき大自然の脅威を前に、人間としては為す術もない。お前らには何もできないんだよ、その気になればいつでも捻り潰せるんだよ、そんな暴君と常に隣合わせの状態で、なおかつ「人類よ、前進せよ」とは、あまりに酷な注文だろう。我々はただ無力感と虚脱感に、涙目で呆然と立ち尽くすのみである。
 それでも……それでもこの稀代の大惨事を教訓として前向きに捉えるなら、おそらく誰もが漠然とは感じているように、やはり我々人類の驕り高ぶった態度への警鐘ということになるだろう。
 サグラダ・ファミリア大聖堂を設計したスペインの建築家アントニ・ガウディが、ある逸話を遺している。彼は作品の建築に際し、技術的には可能であるにも拘らず、建造現場の周囲にある山や丘よりも高い建物を決して設計しなかった。「人間の造ったものが自然の創造物を超えてはならない」との信念のもとに。
 いくら文明が進んでも、いや、文明が進めば進むほど、自然界の一部である人間として厳守すべき基本姿勢がある。震災の衝撃が生々しい現時点ではまだ自然への畏怖から自己制御できているものの、喉元すぎれば熱さ忘れて今までどおりの愚行を繰り返すようなら、そのたびに大自然が怒り震え出すものと、我々は常日頃から心に留め置かねばならない。

 ただ……同時にこうも考えたくなる。果たしてこれは本当に「自然の怒り」なのだろうか、と。もしそうだとしたら、その矛先は純朴な東北の人々などでなく、もっと別のところに集中的に向けられるはずではないのか。例えば、被災者を前にして「天罰」だの「我欲」だの「ポピュリズム政治」だの、相も変わらず己のことを棚に上げた戯言を公に吐く人物とか。さすがの大自然も、そこまで正確に標的を撃つ力は持ち合わせていないのか。それとも、そんな程度の輩は「自らの痛みを噛みしめたり、他者の痛みを想像したりできる」という形の重大な“幸せ”を、絶対に得られぬまま老い果ててしまうよう、自然に仕組まれているのだろうか。


'11.春  東雲 晨





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