アメリカ発のTVドラマが、その高い“脚本力”から日本でも根強い支持を得ている。『24 -TWENTY FOUR-』『ER 緊急救命室』などシリーズものも多く見られるが、そのひとつに、10年前のスタート以来9つのシリーズを重ねる『CSI:科学捜査班』がある。
 往年の英国ロックバンド、ザ・フーによるオープニング曲『Who are You?』('78年)で幕を開けるこのドラマは、科学捜査班(CSI=Crime Scene Investigation)のメンバーが最新科学を駆使して難事件を解決するもので、基本的には毎回2つの事件を軸にしながらストーリーが展開する。互いに無関係な2つの事件は、どこかしら似通った匂いを醸し、人間の(特に犯罪者の)内面的な葛藤や悲哀を浮かび上がらせることで、「完全な白や黒」とは無縁の世界を提示する。時には救いのない結末をも差し出しつつ、思想性すら内包する深い余韻を観る者に残してくれるのだ。 
 また、本作ならではの特徴の一つに「これまでにない映像」が挙げられる。遺体の致命傷や証拠品の微細な部分を拡大するような斬新な映像は、非常にテクノロジー色の濃いクールなものだが、同時に本作の核である、人間の心の機微を描き切るヒューマンな温かみとが、対極に位置する2本の柱として見事に両立されている。
 
 そんな二極構造をさらに重層化した映画が、先ごろアルゼンチンで産声を上げた。今年度アカデミー賞外国語映画賞受賞作『瞳の奥の秘密』('09)は、刑事裁判所を引退した男が、25年前に扱った殺人事件を小説に描こうとする物語である。
 25年前、ある新婚女性が自宅で暴行を受けたうえ殺された。主人公は同僚ともども事件を追い、ほどなく一人の男が容疑者として浮上する。男の自白で一度は逮捕に漕ぎ着けるが、「裏の力」の作用により釈放された男はやがて姿を消し、事件は未解決のまま今に至っている。
 映画の舞台は当時と現在とをスムーズに行き来し、主人公や同僚、若い新任女性上司、被害者の夫、そして犯人らが、四半世紀の時間を超えて縦横に駆けめぐる。その中で、それぞれ別々の立場から別々の事情により生まれた複数の「愛」や「憎」、「死」や「謎」が、それぞれ独自の色と重さを身にまといつつ絡み合う。数本1組の多彩な柱がそこかしこに設置されている、といった印象である。
 とりわけ際立ったのは、「死刑」なるものの是非の問い方。かつて死刑制度に断固反対していた主人公と被害者の夫が、ラスト近くで久しぶりに再会する。そこで主人公は、被害者の夫が犯人を拉致・監禁し、家畜のように扱っている現場を目撃してしまう。被害者の夫は、長年にわたり犯人を“私的な終身刑”に処し続けていたのだ。この衝撃的なシーンでの、「死刑と終身刑」に対する二者二様の解釈を通じ、作者は観る者にこんな問いを投げかける。終身刑とは、果たして常に死刑より人道的な刑罰なのか。何よりも受刑者の側から見て、実際どちらの刑がより残酷かつ絶望的なのか――。
 死刑に代わる最高刑として、日本でも死刑廃止論者によって導入が検討される終身刑。25年前のアルゼンチンはまだ死刑存置国であり、2008年にようやく廃止されるのだが、そういった歴史的経緯を持つ場所から、おそらく当人も死刑反対派であろう作者が「死刑廃止への微かな反問」をあえて発するところに、議論喚起に向けた大きな意味があるのかもしれない。
 なお、再会相手が犯人に対して抱き続ける、気の遠くなるような「憎悪」を間近で目にした主人公は、それに触発されながらもむしろ逆方向へと変換し、自らの内に長らく燻ぶっていた、ある別の対象への途方もない「愛情」を一気に解き放つこととなる。
 幾つものテーマが多重奏を響かせる本作は、「観た後で考えさせられる」どころか、むしろ「観終わってから全てが始まる」とでもいうべき、それこそ題名どおりの奥深さを秘めた逸品である。
 
 ところで、余談ながら……先日ノルウェーで催された、中国の民主活動家・劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞式に欠席した十数ヶ国には、アルゼンチンと同じ南米のベネズエラも含まれていた。ウーゴ・チャベス大統領率いる反米左派の筆頭国ベネズエラは、反米態勢を徹底する一方で中国やロシアとの軍事的・経済的な結び付きを強めている。今回の欠席も中国の圧力による可能性が指摘されるが、ノーベル賞の理念自体への疑問が欠席理由ならともかく、アメリカの覇権主義が「世界平和を乱す」として反発した結果、それとはまた別の覇権主義に加担し、ある重要な平和運動を否定することになるとしたら、まさに本末転倒なその姿は、「戦争によって平和状態をつくる」という“米国タカ派的論理”にすら通じるのではないだろうか。


'10-'11.冬  東雲 晨





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