歴史的な猛暑を記録した夏が、ようやく終わりに近づいている。かつての情緒や風情など何ほども感じさせない、ただ乱暴に直線的に、ひたすら気温が高いだけの季節。ある土地の住人の気質はその地の気候に影響されるとよく言われるが、最近の情勢を見るにつけ、むしろそれは方向が逆かもしれないとさえ思えてくる。

 この夏、大阪で母親が二人の幼児を置き去りにした事件は、「未必の故意」による殺人容疑での再逮捕が検討されている。こういった事件が起こるたびに聞かれる「母親がわが子を虐待や育児放棄するなんて信じられない」という声は人間として至極もっともなものだが、良くも悪くも周囲が他人に干渉しながら皆で子供を育てた一昔前とは違い、誰も助けてくれない中での育児にすっかり孤立し追い詰められる、そんな母親の苦境に思いを致すのも決して難しい話ではない(とりわけ本件のように、理由はどうあれシングルマザーになってしまった母親の場合は尚更のこと)。
 今回の事件でも、近隣住人の多くが異常を察知していたにも拘らず、誰一人として関わろうとはしなかったし、また児童相談所もプライバシーという壁に怯(ひる)んで踏み込むのをためらった。人間関係の希薄化、家族や地域社会の崩壊……一人ひとりがバラバラに切り離された時代には、今後も必然的に発生しうる悲劇である。
 ただ逆に言えば、この種の事件は家族や周囲がもう少し気を配れば未然に防げる場合もあろうが、そんなレベルの努力だけでは収まりがつかない問題も、同じくこの夏、衝撃的に降って湧いた。

 日本全国で高齢者の所在が相次いで不明になるという問題は、時節にちなんで怪談めいた騒ぎとなった。「親は弟と一緒に住んでいると思っていた」「親とはもう何十年も連絡をとっていない」などと、今どきの若者ならまだしも、いい大人(というより「よすぎる」大人)たちが平然と口にする図は、どこから見ても異様である。
 平均寿命の長さを日本と競う韓国やイタリアでは、日本が世界一の長寿国であるという統計に疑念をはさむ報道がなされ、それを受けてか、厚生労働省からは「百歳前後以上の高齢者は人数が少なくデータとして曖昧なため、もともと集計から外してあるので、平均寿命には影響しない」との説明があった。しかし、百歳以下の所在不明者もおそらくは相当数に上るだろうし、また「無理な延命医療を施された高齢者や自力での生活ができないお年寄りを、平均寿命算出時にカウントするのは日本だけだ」ともいわれる。いずれにせよ、そんな数字上の話で済むことではあるまいが。
 長寿大国であること自体の是非はさておき、それを誇りとする以上は「元気で長生き」のお年寄りをたくさん擁していなければならない。が、内実は今回明らかになったとおりである。外観は飾り立てても、中身は……
 “長寿大国ニッポン”とは、現代のこの国を象徴する「虚像」かもしれない。
 地方から若者が流出してお年寄りばかりになるという「限界集落化」どころか、一人の人間が生きているか死んでいるかという基本的なことさえ身内にも分からないところに、今のこの国の空虚感がごく端的に表れている。人間関係の希薄化だとか、家族や地域社会の崩壊だとかいう以前に、絶縁したわけでもない我が親の生死や居場所くらいは知っているのが当然だろう。しかもそんな所在不明者が次々に出てくるとは、もはや人間社会として“底が抜けている”とでもいうべき末期的現象である。
 またこの問題では、行政によるサービスの杜撰(ずさん)さも指摘されている。たしかに、市民の所在すら満足に確認できていなかった不手際は責められても仕方ないし、またここまでの高齢化社会になった以上、社会保障などの面も含めて行政が何らかの対策を早急に打つべきではあるが、自分たちの家族が今どこで何をしているのか、行政の助けを借りる前にもう少し自分たちで把握しようとは思えないものだろうか。
 世の中とは本来、民衆の力でより良くするべきものであり、政治とはあくまで民衆の力だけではどうにもならない部分を補うものである。それをすべて政治に委ねたりしたら、「社会保障を充実させることで何もかも解決しよう、そのためには税金を上げるのもやむを得ない」などという物言いにも連なってしまう。各自ができる、またはやるべきことを金に飽かせて怠り、最初からお上に頼り切るのを前提にしたそんな了見では、どれだけカネを注ぎ込もうと問題解決になど辿り着くはずがない。それこそ、家庭でろくに躾もせぬまま全ての教育を学校に強要するモンスターペアレンツと、愚かしさにおいて同等といえる。
 もっとも、超高齢者の家族にも言い分はあるだろう。自身もまた年金で細々と暮らす高齢者である彼らにしてみれば、さらに上の世代の「超高齢者」など抱えてはとても生きていけない。老々介護や孤独死と同じく、高齢化以前の時代にはなかった問題、しかも将来的に誰もが直面しかねない深刻な問題である。では、一体この局面をどう打開すればいいのか。
 これまでになかった社会問題が発生した際は、これまでになかった発想で、今こそ必要とされる仕事を生み落とす好機でもある。行政は行政として、われわれ民間人においても「高齢化に対しては打つ手なし」などと諦めている場合ではない。いつまで続くか分からない不況をいつまでも言い訳にしたり、貧困ビジネスなどという低劣な商売を編み出したりしている間に、もっと画期性のある“新しいシゴト”を開拓しようとすべきである。
 例えば、老々介護を「家庭内苦行」から解き放って「プロの仕事」にしてみたり。弱った高齢者を元気な高齢者が「職業」として支える仕組みの構築。「元気はあれど居場所のないリタイア層」は、(言葉は悪いが)今の日本で“最大の資源”といえるくらい豊富に存在するはずだし、ひいてはそんな動きが若年・中年層の雇用創出につながるかもしれない。

 ところで、幼児を置き去りにした前述の母親は、「ホストクラブ通いにハマってしまい、もっと遊びたくて家を出た」と供述し、また一連の所在不明問題発覚の端緒となった都内最高齢男性のケースでは、本人が自宅で死亡しているのを家族が知りながら放置し隠していたという。恐らくは、生きていることになっている本人への年金を不正受給するために。
 これから生きていくべき幼児が“若いアダルトチルドレン”の都合で強引に死なせられるかと思えば、とっくに死んでしまったお年寄りが“老いたアダルトチルドレン”の事情で無理矢理この世に引き留められる――「現代の怪談」でも何でもなく、今の日本は人命でさえ“コドモの手中”にあるということか。


'10.夏  東雲 晨





inserted by FC2 system