軍政ビルマの民主化運動を描くドキュメンタリー映画『ビルマVJ 消された革命』('08・デンマーク)が、5月半ばから日本でも公開されている(VJ=ビデオジャーナリスト)。軍事独裁政権による厳しい報道統制の中、反軍政メディア「ビルマ民主の声」のVJたちが身の危険を覚悟して撮った、2007年反政府デモの膨大な映像。本作は、国外メディアにネット配信されたそれらの記録映像を編集したものである。隠しカメラやハンディカメラで撮影されたがゆえに激しく揺れる画面からは、まさにギリギリの切迫感が伝わってくる。
 また、映画の終盤には、日本人VJの長井健司さんが軍兵士に至近距離から射殺された衝撃的シーンも焼きつけられている。彼らのようなフリーランスのジャーナリストが文字どおり命賭けで入手した情報を、大手メディアが自ら危険地域に赴くことなく現地から配信されたまま易々とテレビで垂れ流す――そんな歪んだ報道システムも、いまや周知の事実であろう。
 とはいえ、生の現場で実際に活動する人間からのみ発せられる凄みや迫力には、やはり誰にも文句を言わせぬものがある。換言すれば、それは“実践者”だけに許された特権なのだ。

 このほど日本では、沖縄・米軍普天間基地の移設先をほぼ現行案どおり辺野古に、との政府方針が発表された。この件は、いよいよここから本題に入ると考えるべきだろう。
 自民党政権時代になされた日米合意の見直しを民主党・鳩山由紀夫首相が主張して以来、移設問題は迷走を続けてきた、と一般的にはいわれる。たしかに「『国外、最低でも県外』と公約しながら約束の5月末までの決着を事実上断念し、沖縄県民感情に火をつけた」との批判的な声にも一理はあろう。しかしその一方で「前政権が沖縄に押しつけたまま放置してあった問題に光を当てた功績」を讃える見方もある。
 さんざん国外・県外移設への希望を持たせるような物言いを繰り返した末、「米海兵隊の抑止力」などという“いまさら”な理由を持ち出して前言を翻した点はさすがに稚拙の謗りを免れないが、その「抑止力」の内容自体も少なからず疑問視されている。具体的には、尖閣諸島の領有を主張する中国がその支配に乗り出したところで、最近の良好な米中関係をこじらせてまでアメリカが軍事介入するとは思えないし、また韓国哨戒艦沈没事件でますます緊張が高まる朝鮮半島情勢においても、沖縄に配備された海兵隊が果たして本当に機能するのか、などなど。
 そもそもアメリカは海外の駐留基地から引き揚げる傾向にあり、実際フィリピンからは既に撤退、在韓米軍も縮小済みである。にも拘らず、沖縄に関してのみその方針を積極的に適用しない裏には、「“同盟国”たる子分」がどんな手土産を持って来るか上から見届けてやろうという、いかにもアメリカ的な高圧性が感じられる。イラク戦争やリーマンショックで超大国としての威信を地に墜とし、史上初の黒人大統領誕生という画期的な政権交代を経て従来の「単独行動主義」から「国際協調主義」へと路線変更したとはいえ、こと日本に対してだけは、相も変わらず「“同盟国”たる親分」としての絶対的自信を失っていないということか。
 米軍基地はすべてアメリカにお引き取り願う、という「常識的状態」を取り戻すべきなのはもちろん大前提である。が、これまでにすっかり築かれてしまった圧倒的な力関係のせいで即時全面解決が難しいという現実を考えれば、「常識的状態」に到達するための継続的な努力が必要になる。そして、そういった局面では、色々な案を出し多方面と協議しながら事態を揺さぶっているうちに、何らかの落とし所へと辿り着く可能性が生まれるのであり、目を瞑って問題にフタをしていては進展など望むべくもない。その意味において、「5月末決着の断念」という部分だけを見て「浅薄」「無責任」と切り捨てるのは簡単だが、もっと大きな視野で捉えた場合、かねてより首相が提唱する「常時駐留なき安保」に向けた鳩山政権の今回のアクションは最大限に評価されるべきではないか。少なくとも、ロクな政策も持たない分際で政敵を降ろすネタ探しに躍起の前政権や、アメリカには何ひとつモノ言えぬまま「先ずは政権批判ありき」のメディア、そして何より、沖縄の米軍基地についてほとんど考えたこともないような我々国民に、とやかく言える筋合いのものではないだろう。もちろん、「一気に解決できないくらいなら、今までどおり知らん顔している方がマシだ」とでも言うのなら話は別だが。
 自身は何もしないまま、ただ他人のなしたことに苦言を呈するばかり――そんな極楽なアドバンテージを許された者など、どこにもいないはずである。そして、「価値ある批判」はありがたく傾聴すべき一方、「価値なき批判」などそれこそ反応する価値すらありはしないのだ。


'10.春  東雲 晨





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