つい先頃、NPO自立生活サポートセンター「もやい」事務局長の湯浅誠氏が、日本テレビとNHKにそれぞれドキュメンタリー番組で取り上げられた。
 失業者やホームレスの支援を現場で長年続け、一年前には日比谷公園で行われた「年越し派遣村」の村長も務めた湯浅氏。貧困問題の有効な解決策を打ち出せない新政権に招かれた彼は、昨年秋から内閣府の参与となり、緊急雇用対策本部「貧困・困窮者支援チーム」事務局長として活動を始めた。
 着任にあたり、湯浅氏が「公設派遣村」の開設と併せて特に力を注いだのが「ワンストップサービス」の実施である。従来は国・自治体など別々の窓口で行われていた生活保護や住宅手当、職業訓練の申請を一箇所に集めて行うことで申請者の便宜を図ろうというこの案は、初の試みであるがゆえ様々な障壁に阻まれる。前例なき改革への「お役所的な消極性」や、縦割りの官僚組織における「融通の利かなさ」は予想以上のものであり、また「厳しい財政事情のなかで生活保護費などの財政負担が今以上に重くなるのを避けたい」という地方自治体の現実的な思惑も絡んでくる。
 そういった諸事情を理解したうえで、なおも湯浅氏は言う。「一時的に生活を支えてあげれば今後また働けるような人でも、心身が疲弊しきってしまえば二度と働けないまま、それこそ生活保護を一生受けることになりかねない。それは本人と社会の双方にとって不幸な事態であり、自治体が無理だというなら国が補填すべきである。今のうちに手を打っておけば、後で必ず還ってくるものなのだから」。そこには、まだ間に合う段階で手を差し述べるのは単なる貧困者救済にとどまらず、社会にとっても貴重な労働力を失わないための先行投資だ、という合理的な意味合いが見て取れる。
 改革が遅々として進展しない状況に苛立ちを募らせながらも、それを打破すべく奔走する湯浅氏。しかし、彼の示す方向性に誰もが個人的には賛同しつつも、既存のしがらみや利害関係により「やらない方向」「できない前提」で考えざるを得ないという行政組織の悪癖は根深く、「当事者目線での施策」からどんどん逸脱していく。結局、一定期間を経て当初の目標にほど遠い成果しか挙げられなかった湯浅氏は、不完全燃焼感を抱いたまま3月初旬に参与を辞任し、世論、つまり「貧困者への偏見」を変えるところから再び始めるべく在野の活動家へと戻った。去り際に残した、「今後も必要に応じて政権に協力していきたい」との言葉がもし実現するとしたら、次回の登板時はより踏み込んだ形で手腕を振るうことができるのだろうか。
 余談ながら、番組中にこんな印象的な一コマがあった。暮れも押し詰まったある日、「派遣村の住人たちがいつでも温かいお茶を飲めるように」との配慮のもと、家電量販店で電気ポットを買い求める湯浅氏。「たかがお茶ぐらい、という意見もあるでしょうね」――番組スタッフからの問いに対し、彼は呆れ顔でこう答えた。「『たかがお茶ぐらい』というのは、好きなときに好きなだけお茶を飲める人の発想なんですよ」。

 問題解決への最も効果的な方法とは? この問いが投げかけられるべき領域は他にもある。

 日本で裁判員制度がスタートして間もなく一年。法整備が不十分なまま見切り発車し、有罪無罪だけでなく量刑の決定にまで裁判員が関わるという世界にも類を見ない制度だが、その発足を機に、かねてより議論されてきた重大なテーマが市民にとってより身近なものとなりつつある。――「死刑」とは、本当に必要なものなのだろうか。
 ドキュメンタリー作家の森達也氏によると、刑事司法において寛容化政策をとる北欧ノルウェーでは、故意の殺人事件が皆無に近いそうである。かつては厳罰主義を敷いていたが、悪化する一方の治安に頭を抱え思い切って寛容化に切り替えたところ、情勢は劇的に好転した。人が犯罪に走る主な原因は、愛情の不足や貧しい環境、それに教育の欠如。ならば、それらを補うことこそが犯罪抑止につながるのであり、犯罪者に与えるべきは苦痛でなく治療――これが、ノルウェーの人々が寛容化政策の成功から得た結論だという。それとは逆に、厳罰化の最先端をいくアメリカの治安状況の酷さについては、あらためてここに記すまでもないだろう。
 日本の世論調査では、なんと8割以上の人が死刑制度存置に賛成しているという。「死刑に犯罪抑止効果はない」との統計は確固たるものだし、死刑廃止が世界的潮流であるのも疑いなき事実だが、たとえ全員がそれを知ったとしても、「死刑肯定8割超」の世論に大きな変化が見られるとは思えない。メディアによって造られた「体感治安」の悪化、「とにかく社会を無菌状態にしておけば安心」という病的な潔癖症、それに「自分さえよければいい」という公共心の希薄さ(「周囲や世の中が不幸でも自分だけは幸せ」などという状態は、物理的にあり得ないはずだが)もあるだろうが、たとえば不正を働いて貧困対策の恩恵に与(あずか)ろうとするような“邪(よこしま)な者”が「どうせ大半を占めるのだ」という決めつけが、とりわけ重要な鍵を握っているのではないか。
 どのような環境にあろうと悪い方向に育つ人間は必ず出てくるし、またそうである以上、「当事者を甘やかすような制度があれば、それを悪用する者は根絶できない」のも確かに一面の事実だろう。が、もしかしたらほんの一握りかもしれないそんな輩を戒めることにばかり熱中し、本気で助けを求めている人たちに見向きもしないという心性はさもしい限りのものである。恐らくそんな心性の持ち主は、先述の湯浅氏の活動に対しても「自己満足」「売名行為」などと冷ややかな視線を浴びせるのだろうが、そんな見方しかできないこと自体つくづく気の毒な話であり、専ら不況のせいにされるこの国の“ギスギス感”は、むしろそういった人たちが決して少なくないという現状にこそ主要因を求めるべきかもしれない。
 自らが「貧困者」「犯罪者」のような立場に置かれることなど絶対にないという“根拠なき確信”のもと、国が国民を、国民が同胞を根本的に信頼できないのだとしたら、これほど寂しい風景はない。

 犯罪を防止するには、できるだけ犯罪の起こりにくい社会を作る。貧困を防止するには、できるだけ貧困の生まれにくい社会を作る。それらは同時に「誰もが生きやすい“ギスギスしない”社会づくり」でもあり、そんな根本的な解決法はさしずめ「からだ全体の調子を整える」東洋医学式統合治療のようなものだが、さまざまな面において“重篤患者”である今の日本にそれだけではとても追いつかず、根本解決を進める一方で「病気を局所的に処置する」西洋医学式対症治療が是非とも必要となる。つまり統合治療と対症治療の効果的な組み合わせが望まれる訳だが、厄介なことに日本では、その対症治療の「方向違い度」もまた“重症”だといわざるを得ない。
 犯罪を起こしてしまった者や貧困に陥ってしまった者への対症治療とは、当然ながら適切な指導・教育でありセーフティ・ネットの整備であろう。それを、まるで患部を簡単に切除するかのように、生活困窮者を見殺しにし、凶悪犯罪者を葬り去って良しとする、つまり人間そのものを「切り捨てて」しまうのでは、貧困や犯罪の根絶にまるで繋がらないどころか更なる貧困や犯罪を呼び、事態は悪化の一途をたどる。そんな合理性のないやり方を是とするのなら、貧困者や凶悪犯以外にも「切り捨て対象者」は少なからず存在することになるだろう。生きて活動しているだけで不特定多数の人々に甚大な「死活的被害」を及ぼす彼らのような連中にも、情け容赦のない「極刑」が下されるべきである。
 加えて、個々の犯罪者や良からぬ人間をひたすら叩きまくって終わり、という薄っぺらい論調を展開するメディアも散見される。壊滅的な不況のなかで何とか生き残るべく、その手の見解を好む読者や視聴者に訴えようとする悲壮な姿には、怒りよりむしろ憐憫を覚えてしまうが、それが「素」にせよ計算にせよ、“小者相手の小商い”がいつまでも通用すると本気で思っているとしたら、我々も随分と侮られたものである。


'10.春  東雲 晨





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