マイケル・ジャクソンの“遺作”とも呼べる映画『THIS IS IT』が、10月末から約1ヶ月間にわたって世界同時公開された。彼の急逝により実現しなかったコンサートのリハーサル映像から成るこの作品は、一種特異な質感に支配されたものだった。
 '80年代にスーパースターへと昇り詰めて以降、整形手術や児童虐待などスキャンダルばかりが取り沙汰され、アーティストとしては久しく影を潜めていたマイケル。その彼が今年3月、「自身最後のステージ」として7月からのロンドン公演をブチ上げ、それに向けたリハーサルや舞台裏の風景を個人的に撮影した映像で構成されたのが、本作『THIS IS IT』である。世界中からオーディションで選ばれた若いダンサーやミュージシャンらと共に完璧なステージを創り上げるべく、マイケルは緊張感を保ちながらも決して威圧することなく個々の持ち味を引き出していく。リハーサルということもあってか、彼自身の動きは全体的に抑え目ながら、随所で見せる歌や踊りは往時のままのキレに加えて円熟から来る重厚感をも窺わせる。そんなマイケルの姿からは、かつての輝きを呼び戻すどころか、むしろそれを超えてやろうとさえする強い意欲がヒシヒシと伝わってきた。
 これらの模様が記録されたわずか数日後にマイケルは非業の死を遂げる訳だが、ある意味で燃え尽きた感すらあるリハーサルにもし本番があったなら、一体どんなラスト・パフォーマンスが繰り広げられていたのか、すべては永遠にファンの想像へと委ねられてしまった。

 『レスラー』('08・アメリカ)という映画が、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞をはじめとして数多くの映画賞を受賞した。主演のミッキー・ロークは、マイケル・ジャクソンと同じく'80年代に栄華を極めてのち雌伏の時間を長くしていたが、この作品の成功により鮮やかな復活を果たした。
 ローク演じる主人公・ランディは、かつてスーパースターの名をほしいままにしたプロレスラー。今は落ちぶれて家族も地位も金も失い、場末のリングで細々と現役レスラーを続ける身の上である。身体の変調をきっかけに、別れた娘との距離が縮まりかけたり、互いにほのかな思いを寄せ合う女友達との仲が深まりかけたりするものの、結局は“自分の唯一の居場所”であるリングへと戻ってしまう。いわゆる「男のロマン」を描いた話である。
 この映画は、「『堕ちたスーパースター』である主人公の役に、同じような境遇にある俳優を起用することで、リアルな哀愁を見事に生み出し得た」などと評されるが、その辺りだけに留まるものではないだろう。
 例えば、本作の中盤にこんなシーンがある。ある日ランディが、バーで女友達にビールをおごっている。店内に流れるのは、'80年代に流行ったへヴィ・メタルのナンバー。「昔の歌はよかったな」「そう、'80年代はよかったわね」「'90年代の音楽は最低だ」「ほんと、'90年代なんて最低」……懐古的なやりとりが笑顔でなされ、二人の仲はますます深まっていく。このシーンを通してランディの中に見られるのは、「我が栄光の日々」への執着のみならず、ロマンだけに生きればよかった時代への郷愁を引きずる男の「悲しい性(さが)」ではなかったか。
 「ロマン」を貫くには、それと引き換えに全てを捨てなければならない、つまりロマンと実生活の両立は不可能だった、もしくは不可能だと決めつけられていた時代。バクチのような夢を一途に追い求めるか、それとも「夢は憧憬」と割り切って退屈な現実に収まり、たまにこんな映画でも観てせいぜい溜飲を下げるかという、極端で直線的な二者択一。そうじゃないんだよ。絶えず遠い目で夢を見据えながら、時にしっかり、時に淡々と実生活に対応することで、翼のみならず“地に着いた足”をも生やした「強(したた)かな夢」を煉り上げていく――そんな形で現実とロマンを両立させるのも、「大人の生き方」としてアリなんだよ。ランディという“夢追い人”の破滅的な姿の裏には、かくなるメッセージも刻まれているのではないだろうか。
 なお、かつて「世界で最もセクシーな男」と謳われたミッキー・ロークは、あまりに傍若無人な性格や荒んだ生活ぶりが災いして映画界から干されたとされる。いわば、最低限の常識や社会性を欠きすぎた酬(むく)いである。多くの場合に許されてきた、「スーパースターは傲慢なものだ」という子供じみたコンセンサス。もはや必要とされていない旧い通念からの脱却は、ランディのみならずローク本人にも突きつけられた命題だといえよう。
 映画の中のランディは“昔日の聖域”からどうしても離れられなかったようだが、実在するロークが、この映画で再び脚光を浴びたのを機にこれから新たなスーパースター像を確立できるか、非常に興味深いところである。

 一人の人間の全盛期など、そういつまでも続くものではない。とりわけ、好むと好まざるとに拘らず若くして絶頂を迎えた者にしてみれば、後半生とは往々にして長く苦しいものだろう。その時間を余生として無為に過ごすか、それとも若かりし日々とはまた違った形で“より深い輝き”を放つことができるかが、ピーク時の活躍ぶり以上に彼や彼女の人生の価値を決定づけるのかもしれない。
 死して伝説を残し続ける者と、次なる物語を編むべく生き続ける者。二十年余もの歳月を背景に、二人のスーパースターが別々のやり方で同じことを体現してみせてくれた――そんな感慨をも抱かせつつ、いま、'00年代は夕暮れ時を迎えている。


'09-'10.冬  東雲 晨





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