今年の4月に放映されたNHKスペシャル『ヤノマミ〜奥アマゾン 原初の森に生きる』が、10月には関東地方の地上波で“再々放送”された。
 「ヤノマミ」とは、ベネズエラとブラジルにまたがる深い森の中に住み、独自の文化や風習を1万年以上も守り続ける部族のことである。NHK取材班は、ヤノマミ族の長老やブラジル政府と10年近く交渉した末、150日間という長期の同居・撮影を許され、このドキュメンタリー番組を制作するに至った。が、部族の人々は自らを「ヤノマミ(=人間)」と呼ぶ一方で、滞在する取材班を「ナプ(=人間以下のもの)」と呼び、自分たちとの明確な区別を最後まで解こうとはしなかった。
 
 ヤノマミの村では、産み落とされたばかりの子供はまだ人間でなく「精霊」とされる。子供を人間として迎えるか、精霊のまま天に還すか、それは母親が決めることであり、他の者は理由も問わずにただ受け入れるしかない。子供を天へ送るときは、白アリの巣に納めて燃やす。白アリに食べられた子供は精霊のまま天に昇り、子供を食べた白アリは巣ごと焼き払われて土へと還るのだ。
 村で“偉大なシャーマン”と称される老人が、たった一度だけ取材班に語ったという言葉には、ヤノマミの世界観が濃密に集約されている。「天は精霊の家だ。人間も死ねば、天に昇り精霊となる。地上の死は、死ではない。魂は死なず精霊になる。精霊も、やがて死ぬ。最後に男は、ハエやアリとなり地上に戻る。女は最後に、ノミやダニとなる。地上で生き、天で生き、虫となって消える。それが、総てのものの定めなのだ」。
 余計な演出はいっさい加えず、雷雨や星空の神秘的な映像を交えながらヤノマミの暮らしぶりを淡々と追っていく番組の作りは、あたかも観る者に「自分で感じ考える」ことを強いているかのようである。赤子を白アリの巣ごと燃やす場面や、狩った動物を解体する現場など、生々しいシーンをそのまま流したせいで物議を醸し賛否も分かれたというが、それらを予測したうえで放送に踏み切った局の姿勢には敬意を表するし、また視聴者としては、そんなレベルの非難を織り込んででも番組が伝えようとしたものをしっかり読み取るべきだろう。
 森で生まれ、森を食べ、森に食べられる――独自の死生観に貫かれるヤノマミ族を描いたこの番組が、わずか半年間で3度も放送されるほどの反響を得たところからは、時代への意外な光明を見出せると同時に、現代日本の病巣の深さをも窺うことができる。
 なお、番組のナレーションを担当されたのは、舞踊家・田中泯(みん)氏。企業買収をテーマにした同局の連続ドラマ『ハゲタカ』('07年、原作・真山仁。放送当時の視聴率は低調だったものの、放送終了後にじわじわと評価を高め、'09年に再放送。同年、映画化も果たした)において、寡黙で気骨ある職人を演じ強烈な存在感を示した田中氏の抑えた語りが、この静かな迫力を湛える番組に、何の違和感もなく寄り添っていた。
 
 石原都知事が自らの集大成とするべく全力を注いでいた東京への五輪招致は、当然かつ幸いながら見事な失敗に終わった。かと思えば、今度は被爆地である広島市と長崎市が、核廃絶を訴えて2020年夏季五輪の開催地に立候補するという。
 国威発揚と商業主義の象徴だとか、平和の祭典たる原点に戻るべきだとかいう以前に、オリンピックなど所詮いわゆる文明国家、もしくは「文明国家が認知する」国や地域のみによって成る大会にすぎない。その枠内での順位やメダルに何ほどの価値があるかは大いに疑問だし、また「自分たちこそ世界基準」と信じ込む文明国家とやらの高慢には、ただ畏れ入ってばかりもいられない。
 例えば、日本人の多くは「世界には飢餓や紛争に喘いでいる地域が多くあり、それに比べれば日本は恵まれている」などと考えがちだが、その発想自体がすでに文明国家の目線によるものだといえよう。仮にその「喘いでいる地域」の人たちが日本に来て周りを眺めれば、こんな風に思うかもしれない。「確かにここは平和で清潔で、モノに溢れて生活も便利そうだが、それにしても何なんだ、この死んだ目をした連中の息詰まるような生き方は!? こんなところに長居は無用、さっさと我らがクニへ帰ろう」。結局のところ“何をもって至福となし、何をもって致命傷となすか”という価値観の問題であり、彼らが日本的ライフスタイルの欠陥を“致命傷”と診て忌避する可能性は充分ある。
 さらに、日本の場合は特殊な事情をも孕んでいる。
 第二次大戦の戦勝国アメリカは、ソ連や中国など当時の東側共産主義国への対抗措置として、占領下に置いた極東の島国を強力な資本主義国に仕立て上げようと画策し、そこに「敗戦の屈辱から一日も早く立ち直りたい」という国民感情も相俟って、戦後日本は驚異的なスピードでの復興を遂げた。ただし、それは経済成長一辺倒の実に貧相なものであり、その哀れな末路については、いま我々の眼前に広がる惨状がすべてを物語っているだろう。
 しかも、資源もなければ国土にも恵まれない、「およそ経済的に繁栄する器でない国」が、狂おしいほどの努力により短期間で経済大国へと上り詰めたせいで、それを維持するには常にギリギリの努力をし続けなければならないという、なんとも悲壮な形が出来上がってしまった。挙句、いい意味での余裕や遊びのない状態でいつも何かに忙殺されるのを是とする国民性に拍車がかかり、今や巷では、まるで必死にトイレを我慢するかのような「見当違いの努力」に嬉々として邁進する図も少なからず見受けられる。
 いうなれば、“勤勉を騙(かた)る貧乏性”。そんなものに侵されてまで「文明人」を気取りたがる我々の姿など、ヤノマミ族の目には「人間以下」どころか「下の下の下」に映るかもしれない。
 もともと高貴な生まれの将軍に比べて、低い階級から一気に成り上がった将軍は、力みすぎた反動で極端な方向へと暴走しやすい――こんな不幸な傾向にも、どこか似ているではないか。
 
 パラレルワールドなる概念を持ち出すまでもなく、あくまでもこの現世に辺境地帯はいくらでもあり、ヤノマミ族に限らず、そこには我々の知らない「人間」がいくらでもいるだろう。そしてその中には、ウサイン・ボルトの何倍もの速さ、それこそチーター並みの速さで走れる人間がいるかもしれないし、あるいはマラソンの“世界記録保持者”などより遥かに速く、しかも遥かに長く走り続けることのできる人間がいないとも限らない。
 「人類の平和」や「自然との共生」を威勢よく謳うのもいいが、その前に我々としては“驕り毒された文明カブレ”を拭い去って初めて、ヤノマミから「人間」扱いされるスタートラインに立てるのではないだろうか。


'09.秋  東雲 晨





inserted by FC2 system