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現役の人気プロレスラーが、試合中に相手の攻撃を受けて倒れ、そのまま帰らぬ人になるという非常に痛ましい事故が起きた。「プロレスリング・ノア」の社長兼エース、三沢光晴選手(享年46歳)が、バックドロップという技を喰らって頭部を強打、心肺停止状態で病院に運ばれ、間もなく死亡が確認されたのだ。
故・ジャイアント馬場の率いた全日本プロレスで'90年代にエースとして活躍し、2000年には前述の新団体を旗揚げして社長にも就任、現役レスラーとの兼業をこなし続けた三沢選手。長年の激務が彼の心身をボロボロにしたのは容易に想像できるし、特にここ数ヶ月は体調が悪そうで、リングでの動きにも精彩を欠いていたといわれる。
プロレス人気低迷のこの時代、地方会場での観客動員数が思わしくなかったうえ、地上波テレビ中継も今年の3月で打ち切られ、ますます苦しい状況に陥っていた。いかに好きでやっている稼業とはいえ、社長をも兼ねるエースとしては計り知れない心労や重圧を常に背負っていたことだろう。その辺りは、全日本プロレスと並ぶメジャー団体だった新日本プロレスから飛び出し、ノア旗揚げの翌年に「ZERO‐ONE」なる団体を興してその屋台骨となり奮闘した末、40歳の若さで2005年に急逝した橋本真也選手とも重なるものがある。統一コミッショナーのないプロレス業界を象徴する厳しい実態だといえよう(今回の悲劇を機に、ようやくプロレス界にも統一コミッショナー設立への動きが出てきた)。
不況による経費節減のため視聴率の低い番組を打ち切るというのなら、プロレスという長年テレビに馴染んできた独特の世界を安易に消してしまう前に、もっと数字が取れず、その上くだらない番組がほかに幾らでもあるだろう。しかも、それをすればノアの経営状態が大幅に悪化するのを分かったうえで番組打ち切りを断行し追い詰めておきながら、三沢選手が亡くなったからといって自局で追悼番組を作って流せるテレビ局の神経を疑う。打ち切りは局という組織の方針であり、個人的には放送継続を願いながらその方針に従わざるを得なかった社員も少なからずいるだろう。が、会社の姿勢としては到底納得できるものではない。
また、格闘技人気に押されてプロレスが廃(すた)れたというが、あくまで格闘技とプロレスは別物である。どちらも観客を集めて催す興行だとはいえ、前者は競技スポーツ、後者はいわば「アクション演劇」。近年のプロレスに魅力が乏しくなったせいも勿論あるにせよ、もともとプロレスを好む感性を持っていた多くの人たちが、格闘技を観て別物だと気づき双方の面白さをそれぞれ味わおうとするのでなく、プロレスをすっかり見限って格闘技に鞍替えするというのは、文化という面において実に貧しい現象である。
ともあれ今回の事故では、プロレス=「格闘技を演じる芝居」の、その芝居がいかに危険度の高い、身体を張ったものであるかを、あまりにも悲しい形で再確認させられた。受け身の名手と呼ばれた三沢選手でさえも、一歩間違えば大惨事へと直結するほどに。経営者としての艱難辛苦をも抱え込みつつ、そんな「命がけの芝居」に散ってしまった三沢さんの生き様には、プロレスというジャンルならではの哀切を痛感せずにいられない。
かと思えば、命の危険などからは程遠いところで、ボールを打ったり投げたり蹴ったりするのが上手いだけで巨万の富を得る者もいる。
松坂大輔投手のボストン・レッドソックスでの年俸、6年総額で約61億円。言うまでもなく、呆れるほどの大金である。“本場”アメリカ大リーグには松坂投手以上の高給取りもゴロゴロしており、それに比べたら日本のプロ野球選手の年俸など高が知れている。活躍できる期間の短さや差し引かれる税金の高さ、それに精神や肉体への負担などを勘案すれば、決して割に合う商売ではない。代理人と手を組んで高い報酬を要求し、それに届かない球団提示には公然と不満を見せてFA移籍やメジャー流出をちらつかせるのも無理からぬところであろう。
とはいえ、あまりに無茶なギャラを欲する“スター・プレイヤー”も、数えるほどだが確かにいる。そして、不況や派遣切り関連の報道でいかにも「弱者の味方」のごとき憂い節を繰り出すメディアが、その同じ舌で彼らの言い分に当然とばかり同調する。テレビでは連続するニュースとして、新聞や雑誌では隣り合う記事として。「この御時世にこれだけ貰って涼しい顔とは、いったい何を考えてやがるんだ」「そんなに法外に稼ぐ連中が、少しくらい社会に還元したらどうなんだ」――誰もが感じるはずの正論を、絶対に吐こうとはしない。自分たちも高給を食むゆえあまり強くは言えないのか、それとも誰かに何か弱みでも握られているのか。
しかも、実際それでペイできるほど支払う側が潤っているならまだしも、ごく一部の雇い主を除いては決してそうではない。つまり、自らの貢献度をはるかに凌ぐ見返りを求めているのだ。「成功しているのはほんの一握り」「明日をも知れぬ不安定な身分」――そんな尤もらしい常套句で言い繕ってみても、それでも常軌を逸していると思うのが自然な感覚だろう。「ほんの一握り」だから幾ら厚遇してもいい、という理屈がそもそも分からないし、「明日をも知れぬ身」はネットカフェ難民と呼ばれる人々とて同じこと、ましてや彼らは無収入に近いのである。
とりわけ日本のスポーツ選手の場合、小さな頃からひとつのスポーツに没頭して育ち、世の中の動きや経済の仕組みなど一切を知らされないまま年齢だけが大人になる例も多い。「何でも万遍なくできるのがいい」と謳いつつ、その実なぜか各領域で「専門バカ」を作りたがる日本社会の典型的な被害者ともいえるが、世情から隔離されるほど不幸なことはないだろう。そして、能力を金額というモノサシでしか評価してもらえないのも、負けず劣らず不幸である。
クリスチアーノ・ロナウド選手のレアル・マドリードへの移籍金、約129億円。左派政権が反米姿勢を露わにしてきた中南米に続いて、欧州もこの世界的金融危機の発端となったアメリカ式資本主義を非難し、ようやく脱アメリカを図り始めたというが、中南米にせよ欧州にせよ、巨大なカネでサッカー選手を売り買いするという、いかにもアメリカ的な脂ぎったやり方を続けているうちは、脱アメリカなどまだまだ覚束ないといえよう。
そういえば、“本場”アメリカのプロレス界は、自らを「アクション演劇たるエンターテインメント」であると公言している。つまりは、明朗快活なショー・ビジネス。対して、存在自体が「社会的ヒール(悪役)」のごとき日本プロレス界には、そんな無粋を犯すことなく、たとえ精神的・経済的に苦しくともプロレスというジャンル「ならではの」陰影濃厚な世界を守り抜いてほしい。それは、文化という面における“日本独自の反米姿勢”のひとつでもあるのだから。
ところで、過去にアカデミー賞を3回(監督賞2回、脚本賞1回)も受賞した社会派映画監督のオリバー・ストーン氏が、ジョージ・W・ブッシュ前大統領およびネオコン政権の面々を徹底的に揶揄する、その名も『ブッシュ』(原題は『W.』)なる作品を先ごろ発表した。しかも次回作には、反米左派を代表するベネズエラのウーゴ・チャべス大統領を描いたものが予定されているという。幸か不幸か、そんなストーン監督も「アメリカ人」であり、そしてそんな風景もまた、ひとつの「アメリカ」なのである。
'09.夏 東雲 晨