5月初頭、ロック歌手の忌野清志郎さんが、がん性リンパ管症で亡くなった。3年前に発症した喉頭がんを“新しいブルース”と表現して一旦は克服するも、昨年になって左腸骨への転移が見つかり、惜しまれながら“永遠のブルース”へと旅立った訳である。ただ、それを報じるメディアの「傲慢な丸さ」は、いつものように違和感を募らせるものだった。
 RCサクセション時代から、楽曲の放送禁止や発売中止に見舞われるような過激で反社会的なパフォーマンスを展開する一方で、弱者の声を代弁する歌も多く遺した“バンドマン”。その人生には当然ながら、容易に語れぬ様々なストーリーが刻み込まれているはずだが、メディアは彼の死に際して「優しさに根差した反骨心」などという表層的なフレーズで総括し、決めゼリフ“愛し合ってるかい?”をも、単なる「愛と平和のメッセージ」に落ち着かせて一丁上がりとしてしまう。
 「反社会」的な活動を「社会」が上から円満に認め、「いい話」としてキレイにまとめる――当人としてはそんな収斂(しゅうれん)のされ方に至極不愉快だろうが、残念ながらキヨシローは文句のひとつも吐き出せない。“死人に口なし”とはまさにこのことであり、メディアの不遜な勘違いぶりには今更ながら閉口させられる。
 もっとも、7年前にコラムニストのナンシー関さんが急逝した折、ある放送評論家とやらが彼女のことを「テレビ好き」の一言で片付けているのを見たときは、閉口どころか「開いた口が塞がらなかった」ものだが。

 昨年秋、同じくがんで他界された俳優の緒形拳さんは、生前のインタビューでこんなことを仰っていた。「闘老、つまり『老いと闘う』という言葉を最近よく耳にするが、自分はその言葉があまり好きじゃない。老いとは闘う相手でなく、うまく付き合っていく相手だと思うので」。
 いま流行りの概念、アンチエイジング。見た目や心持ちを若々しく保ちたいという願望にはある程度賛同できるし、ある意味では大切なことだとも思うが、老化という自然現象そのものに抗おうとするのはいかにも愚行である。緒形さんは老いへのアプローチと同様、がんとも闘うことなくうまく付き合った先に、共に生き、共に斃(たお)れたということか。
 現代社会を生きる上で、ストレスの帯同は避けられぬものである。ストレスフリーな社会を構築していこうという意識はもちろん持ち続けるべきだが、現実的に我々は当面のストレスを何とかやり過ごしていくしかない。がんがストレスを具現するものだとしたら、それに捕えられた以上、やはり闘わずして「飼い馴らす」ことこそが最も相応しい態度なのかもしれない。
 また、自らの病を「個人的な事柄」として一切公表せず、ある日忽然とがんもろとも昇天された緒形さんの姿はあまりに高潔なものであり、それに引き換え、有名人が(がんに限らず)闘病生活を大っぴらにしてメディアともども商売に利用するのは何と浅ましい姿だろうか。病気をもゼニに換えようとする逞しき商魂は、私生活の切り売りの中でも下品を極めたものである。

 何はともあれ、次から次へと人は亡くなり、そして誰かが亡くなる度に「いい人ばかりがこの世を去ってしまう」という声が聞かれる。そういう見方をするから「この世を去るのはいい人ばかり」に見えるのかもしれないが、そこには確かに否定できない面もあるだろう。さしずめ、このロクでもない現世に不釣合いな「優れた人物」がより早く天に召され、いま現在この世に生き永らえている我々は「ロクでなしの集い」といったところか。だとすれば、いずれあの世の勢力にこの世の勢力が完全に駆逐されてしまうことになるが、もちろんそれでいいはずはない。ロクでもない世の中だと嘆くばかりでなく、そんな「ロクでもない世の中」を改善する方向で“現役生者の底力”を示すのが、この世に居座る人間として当然の責務なのだから。
 「どうあがいてみたところで、ポールはジョンにかなわない」――こんな図式を「そのとおり」などと物分かりよく受け入れるのは、あの世の住人になってからで充分というものだ。


'09.春  東雲 晨





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