キューバ革命の指導者、エルネスト・“チェ”・ゲバラの生誕80周年および革命50周年を記念し、今年は世界各地で様々な関連行事が開催されている。その一つとして、スティーヴン・ソダーバーグ監督(アメリカ)によるスペイン・フランス・アメリカ合作映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』の2部作が、日本でも公開された。
 「革命家」という響きのカッコよさや雰囲気に大抵の日本人は魅かれるし、この“どん底”の時代に誰もがそんな人物の登場を熱望しているように見えるが、もし実際にそんな人物がいたとしても大がかりな革命へと発展することはないだろう。映画の中でゲバラが言っているように、「革命とは皆で成し遂げるもの」だからだ。

 アメリカ第44代大統領、バラク・オバマ氏の就任式が1月20日に行われ、寒空の下で20万人を超える聴衆が就任演説に聴き入った。行き詰った現状を変えてくれそうなイメージを放つ人物に安易に飛びつきたがる底の浅さも感じはするものの、国民が政治に熱狂する図など今の日本ではちょっと考えられない。せいぜい近年では、何のビジョンもない総理大臣の軽薄なパフォーマンスに何も考えぬまま踊らされ騙された程度か。
 また、中南米ではここ数年、貧困層の圧倒的支持を得た反米左派政権が著しい台頭を見せている。ベネズエラのウーゴ・チャべス大統領やボリビアのエボ・モラレス大統領などがその代表格として挙げられるが、民衆を味方につけたチャべス大統領が少しずつ専横ぶり(政権に批判的なメディアへの規制強化や、大統領の無期限再選を認める憲法改正案の提示など)を発揮し始めたと見て取るや、その部分に対して今度は民衆がノーを突きつける。熱狂、かつ冷静。そんな社会的ダイナミズムが、今の日本でまず見られないのは何故だろうか。洋の東西や経済的な貧富に拘らず、もっと言えば、日本などより遥かに強権的な政府のもとですら市民が当然のようにモノ申すべく立ち上がる国もあるというのに、これはどうしたことだろうか。
 高度経済成長を経て管理社会化が徹底する過程で、日本人の気骨は徐々に抜かれていったと言われる。そして今や、この世の理不尽や社会悪に対して「抵抗しても無駄」などと最初から諦めるのが通例になってしまっている。みんなで結束すれば打ち倒せるかもしれないものを、である。事を荒立てたがらない国民性も元々あるにせよ、「たとえ自分が声を上げても誰も乗っては来ない」ということを各人が肌で知っているのだ。
 そこで宙に浮いてしまったエネルギーは、「悪い奴ら」に正面から立ち向かい異議を唱える代わりに、全く別の不毛な方向へと注がれる。もたらされる苦痛の根源を取り去るのでなく、それをごまかし和らげるために「癒し」や「やさしさ」を追い求めたり、活躍している人物に共感し、無理やり自分を重ね合わせて「勇気」や「感動」を貪(むさぼ)ったり、さもなくば自暴自棄になって軽率な凶悪犯罪に走ったり、その犯人に世間全体が寄ってたかって集中砲火を浴びせかけたり……熱狂ではなく、単なる“狂”。何の解決にもならない労力の空費が延々と続くうち、「悪い奴ら」の目論見どおりに事態が悪化の一途を辿るのは当然の帰結である。
 では、この場合の処方箋とはいったい何なのか。
 禁酒にせよ禁煙にせよ、まだ身体が欲している時点で断行するのは労多くして功少ないが、欲さなくなりつつある状況下では格段に容易なものである。その逆パターンで、革命とは言わないまでも世の中を改善しようという体勢を常態化するには、いたずらに「日本人よ、もっと怒れ!」と叫んだり革命家然とした人物の出現を待ったりするよりも、かつて日本にもあった「然るべき方向に怒り、必要とあらば立ち上がる」ことのできる土壌を整える、つまり“熱狂への欲求”を身体に呼び覚ますのが先決ではないか。それも、経済成長とともに染み付いてきた悪しき習性と訣別するのは、経済が中心に居座っていた従来の形から大きく転換しつつある今の時代にこそ「格段に容易」といえるのではなかろうか。もちろん、数十年もの時間をかけてすっかり眠りについたものを一瞬で目覚めさせるという訳にもいくまい。しかし、まさか我々が、敗戦による「一億総極貧」状態、すなわち「経済壊滅」状態などに追い込まれるまで覚醒できぬほど非力なはずはないのだから。

 それとも――そんな概念を一笑に付すような、新時代型の“クールな熱狂”なるものが存在するというのだろうか。


'08-'09.冬  東雲 晨





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