11月初頭、木枯らし1号の吹く東京で、アイヌ民族の音楽や踊りに触れる機会を得た。アイヌ文化に関する知識の普及を趣旨に催されたイベントの一環としてである。
 アイヌ文化の基底には、人間の力の及ばぬ存在である「神」や「自然」への畏敬があり、そういった精神風土は彼らの伝統芸能にも色濃く反映されている。自然と共生するための知恵を伝える口承文芸、悲しみや恋心など個々人の想いを託した歌、それに、神々への感謝や祈りを表すもの、動物の動きを表すものなど様々な種類がある古式舞踊。彼らを長らく抑圧してきたシャモ(和人)との苦闘の歴史もまた刻み込まれているだろうアイヌ芸能の数々は、どれもこれもがこの上なくシンプルな迫力を宿していた。
 彼らが歌をうたう際、心に沁み透るような肉声に添えられるのはトンコリ、ムックリといった民族楽器の音色であり、踊りの伴奏に至っては人間の歌と手拍子のみ。仕事でなく人生や生活に根ざした質実素朴な「音と舞」が、売り物としての華美さなきゆえに観る者や聴く者の核心部分を直撃する。「通俗的な分かりやすさ」の提供を拒絶し、共鳴してくれる者のみと分かち合うべく披露される伝承芸。それらが死守する「気高きアマチュアリズム」は、古くよりアイヌ民族を包み込んできた“極めて高純度な北国の冷気” を彷彿させるものだった。

 同じ11月初頭、“音楽業界で最も稼いだ男”小室哲哉氏が詐欺容疑で逮捕された。何が世間で受け入れられるかを徹底的に分析し、「いい音楽を作った結果として売れた」でなく「最初から売ることを目的に作った」マーケティング音楽の権化。音楽を、闘いもリスペクトもない「ただの商品」へと貶(おとし)めた人物が、その音楽ビジネスによって逆に堕とされた訳だが、ある意味で「いいけれど売れない音楽」の対極に位置した彼の墜落事件は、確かに一定の影響力を持つものであろう。音楽を食い物にしていながら、自己肯定や保身のため「プロというのは凄いんだ」「売れるものが良いものだ」などと子供騙しを並べ立てる“業界のプロたち”の中には、「コムロサン」の末路を他人事とは思えない者も多いはずだから。ただし彼らの場合、己の取り組む対象が「芸術」でなく「商売」だと自覚している分だけ、まだ救いがあるのかもしれない。
 先に少し触れたような、よい音楽が商業的に成功するケースももちろんある。「純度が高すぎるゆえ金に換えられぬもの」と「清濁あわせ持つゆえゼニとも折り合えるもの」――それぞれアマとプロのあるべき姿といえる両者もまた違った意味で相互に対極をなすが、この二者間には優劣などつけるべくもない。むしろ最も始末が悪いのは、「純度の高さを装いながらせっせと商売に励むもの」ではないだろうか。それも、当初から一貫してそんな姿勢を示すより、元々は実際に高い純度を有していながらいつの間にか「ただの商売」へと変質してしまうものこそ重篤の極みである。しかも多くの場合、その変質に本人が気づかぬだけでなく周りの支持者たちもストップをかけてはくれない。本人と同様に気づかないのか、あるいは気づいても声をかけづらいのか、はたまた薄々気づいてはいるものの、彼や彼女を支持してきた今までの自分を否定するのに耐えられず、あえて気づかぬ振りをするのか。
 いずれにせよ、本人も周囲も歯止めの利かぬまま共倒れし、かつて自らが誇った高みからあっという間に遠ざかっていく。そして、音楽業界のみならず、また商売という範疇(はんちゅう)にもとどまらず、悲しいかな巷にはそんな輩が次から次へと湧き出てくる。

 晩節を穢(けが)すほど容易で絶望的なことはない。哀れにもその轍を踏んでしまった彼らには、せめて最期に「純度高かりし昔日のわが身」でも思い出しつつ静かにお引き取り願うしかないのだろうか。


'08.秋  東雲 晨





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