去る7月17日、日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄投手が、40歳を目前にとうとう現役引退を表明した。もしや生涯現役を続ける気では?――そんな雰囲気すら漂わせていた“トルネード”の幕引きの報せは、驚きと同時に言いようのない寂しさを感じさせるものだったが、それに関する日本での報道の少なさにもまた拍子抜けするほどであった。
 「長らく一線から遠ざかっていた末の引退だったから」といえば尤もらしく聞こえるものの、日本球界と訣別し絶対に帰って来ようとしなかった人間に対する「疎ましさ」も、そこには少なからず作用していただろう。が、そんな些事はいざ知らず、野茂投手の引退は他のプロ野球選手のそれとは決定的に重みの違うものである。
 大リーグ通算123勝。史上4人目のメジャー両リーグでのノーヒット・ノーラン達成。惜しくも「ドジャースに勝てば史上5人目のメジャー全球団から勝ち星」という快記録には手が届かなかったが、そういった公式記録のケタ外れ加減もさることながら、彼が目一杯のプレイを通じて示してくれたと私が感じることを、これまで野茂投手についてしてきた言及とやや重複するものも含めてここに幾つか記しておきたい。


 メイン・ストリームの対極にある、それも従来では考えられなかった地平を中途半端に目指せばまず間違いなく頓挫するが、そこを極めてしまおうものなら、競合他者がいないため結果的に「一人勝ち」できる。しかも、その成功を見て追随する者が大量に出てきたとしても、その時点でもはや彼らは引き立て役にすぎない。つまり、どれほど追随者が多く現れたところで、いや、多く現れれば現れるほど、先駆者としての存在感はより絶対性、圧倒性を高め、輝きは褪せるどころかますます燦然たるものになる。
 何かを最初に成し遂げた者とは、永久に“別格”なのである。

 単に記録の上で「勝つ」というのではなく、自らに課した条件を満たした上で「勝つ」ことが、己にとっての勝利。日本プロ野球界でなくメジャーリーグの舞台で勝つ。自分に最適と確信し編み出した投法で勝つ。自分の勝負したい球種のみで勝つ。かと思えば、所属チームにはこだわらず多くの球団を身軽に渡り歩き、その時どきに所属しているチームで勝つ。這い上がるために必要とあらば、独立リーグに乗り込んででも勝つ。そして何よりも、そんな勝ち方を支持してくれるファンを喜ばせるために勝つ。……独自に定めたルールの中で“なりふり構い、手段を選んで”勝つのが、「己にとっての勝利」である。
 プロフェッショナルとは、心の赴くままに取り組んだことが「見る目ある」人たちを魅了し、なおかつ最終的に小遣い程度ではない報酬を手にできる者のことをいう。

 何かに打ち込んだ結果として、その領域以外の方面にも大きな影響を及ぼす存在がある。野茂投手は一人のプレイヤーである一方でアメリカ独立リーグの球団や日本の社会人野球クラブチームのオーナーになったり、また彼のメジャー挑戦が日米の橋渡し的な役割を果たしたことで日本やアメリカの政治家から「百人の外交官に匹敵する」「日本の最高の輸出品」などと評されたりした訳だが、もとよりそんな個別的な次元にとどまる話ではない。投じる姿そのものがまさにトルネードのごとく世界を巻き込んだ彼の在り様は、ロックバンドとしての活動が音楽というジャンルを飛び出して広く時代や世の中を揺さぶった“ザ・ビートルズ”にすら通じるものだと言えるだろう。
 超一流とは、「その領域での一流」を超えるのみならず、「その領域自体」をも超える者にこそ与えられるべき称号である。


 “小説の神様”志賀直哉の作品に「清兵衛と瓢箪」という短編がある。世間からは「子供の遊び」として軽んじられているようなものが実は途方もない価値を持つことがある。しかし、その価値をカネに換算するという“大人の思惑”に子供は何の興味も持たない――そんな二重の深い意味がごく短い文章にこめられた逸品なのだが、ニュアンスはやや異なるものの、野茂投手の良い意味での「一途さ、純粋さ」には、この小説を読んだ後の何ともいえない爽快感を彷彿させるものがある。
 野茂投手が道を拓いてくれたお蔭で当たり前のように大リーグへ移籍する後発の日本人選手たちは、根本的に野茂投手の比較対象にすらなり得ない。そして、そんな偉大なピッチャーの引退よりも、「確信犯的な内野安打」を量産しては一人で悦に入るセコいバッターの3000本安打達成などを遥かに大きく報じるところが、「まつろわぬ者への冷遇」と併せた日本メディアの“二重のスケール小ささ”である。


'08.夏  東雲 晨





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