「カリスマ」という呼称がこれほど気安く使われ始めたのは、一体いつの頃からだろうか。この言葉が本来持っていた神秘性や格調高さはすっかり削がれ、単に「超有名人」「超売れっ子」を形容する極めて俗っぽい記号に成り下がってしまった。仮に元々の意味でのカリスマ性を持つ人物が同時に有名人でもある場合、彼や彼女が「カリスマ」と称されるのはその「カリスマ性」によってでなく、あくまで「売れている」せいにすぎない。そのうえ「カリスマセレブ」などという訳の分からぬ重複語を差し出された日には、もはや失笑でもするしかないほどだ。
 とかく世の中の事象が総じて軽薄化しつつある昨今だが、その最たる例は「死」なる概念の絶望的な軽さであろう。かつては“人間にとって最大の恐怖”だった「死」を、今や“安息を約束された解放区”くらいに見なしている者も少なからずいるようだ。

 山口県光市・母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁は被告の元少年に死刑を言い渡した。これまでの基準から脱して厳罰化への流れを加速させる画期的な判決などと評されるものの、そこには大きな見当違いが潜んでいる。
 「国家による殺人」である死刑の是非を問うにあたって賛成派が吐く根拠のひとつに「死刑制度の存置が凶悪犯罪の抑止効果を持ちうる」という言い草がある。この見解、統計的証拠の存在を疑問視されているが、それ以前に「誰もが死刑を怖がる」のを前提にした発想でしかない。
 ネーミングとしてすっかり定着した感がある「自殺大国・ニッポン」。倒産・リストラの憂き目に遭ったサラリーマンや経営に行き詰った自営業者たちが抜き差しならずに自裁するケースもあれば、主に若年層が呆れるほど些細な理由で簡単に死を選ぶケースもある。前者も決して褒められたものではなかろうが、後者に至っては、死ぬ動機のみならずその方法についてもまた愚かしさを極める事例が出回り始めた。死にたくとも一人では死に切れないゆえネット上でわざわざ見ず知らずの人間を募り集団自殺を図るくらいならまだしも、誰でもいいから人を殺して死刑になろうとする輩が次から次へと現れる目も当てられない惨状。法の力であの世に送ってもらおうという根性自体あまりに情けないものながら、そんな「死にたい連中」がウヨウヨしているご時世に今回のような判例を作ってしまえば、凶悪犯罪の抑止どころか「自分たちでも人を殺せば死刑になれるぞ」とばかりに未成年の他界志願者たちが雪崩を打つごとく道連れ殺人へと走る可能性も充分あるはずだ。
 「死にたい人間」の望みを叶えるために、無関係な人々が無差別に殺される――そんな舞台設定を国が用意し、そのせいで“誰でもよかった”不運な犠牲者が飛躍的に増えたとしたら、彼らこそ「死刑制度の間接被害者」と呼ばれて然るべきだろう。

 「国家による殺人」とはよく云ったものである。
 それも「国が煽って民が応じる無差別殺人」、さらに「民が自らの命を国に委ねる」となれば……まるで国家を“カリスマ”と崇(あが)めるかのようなこの構図、何かに似てはいないだろうか。


'08.春  東雲 晨





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