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 プロ野球日本シリーズ進出を賭けたクライマックス・シリーズ(CS)。今年のパ・リーグでは、2年連続シーズン優勝の北海道日本ハムファイターズが、CS第1ステージを勝ち抜いた千葉ロッテマリーンズ(シーズン2位)を札幌ドームに迎えて第2ステージが行われた。
 ファイターズ・ダルビッシュ有とマリーンズ・成瀬善久、若き両エースの投げ合いがあたかも予め最終戦に設えてあったかのような“ファンサービス満点の”全5試合。「和」や「つながり」などという域を超えて“有機的な生き物”のごとき流麗さを誇る両チームは、生き物ゆえの機能不全に陥ることも少なからずあったにせよ、「プロ野球の何たるか」を競い合う攻防で、観る者を存分に楽しませてくれた。
 勝負の行方を最も左右したのは、シーズンにおける両者の順位差を生んだのと全く同じ要素だった。今年のマリーンズは、チャンスメークには事欠かないもののあと一本が出なかったり、明らかな勝ちゲームを土壇場で落としたりする場面が、ファイターズに比べてあまりにも多過ぎた。言うなれば、「能力に見合わない失態の多寡」。そこに地元ファンの温かい応援や札幌ドームの使い方(特に守備隊形について)の巧さなども加わり、明暗の分かれ目は決定的に広がっていく――。
 かくして、マリーンズとの高次元なCSを制したファイターズ。そんな彼らが、“原っぱの草野球チーム”が優勝するようなリーグの代表に日本シリーズで完敗したのは、「“投壊”のせいでリズムが狂ったから」「シリーズ直前にチーム内に不協和音が生じたから」など原因として諸説あるものの、真相は「楽しすぎたロッテ戦ですっかり燃え尽き、中日相手ではやる気が起こらなかったから」ではあるまいか。
 それにしても、これからの「プロ野球」を考えた場合、いかに「短期決戦に油断は禁物」とはいえ、圧倒的に戦況有利な段階で完全試合達成目前の投手を交代させてまで勝ちにいくような“ファンサービス皆無の”監督率いるチームなどが日本一になるべきではなかった。
 プロ野球とは「魅せる野球」であり、「魅せない野球」などプロ野球とは呼べない。

 「日本一になるべきではなかった」チームをもう一例。
 今夏の甲子園大会で、無名の県立である佐賀北高校が全国制覇を成し遂げたのは記憶に新しい。記録的な猛暑の中、引き分け再試合や延長戦などを経てどこよりも長いイニングを戦い抜き、驚異的な粘りの末に名門校を次々と撃破しての優勝は、甲子園を、そして全国を大いに沸かせた。ただ、古豪・広陵高校(広島)との決勝戦は、残念ながら“アンフェア”な結果に終わってしまう。
 この試合での佐賀北打線は、広陵のエース・野村祐輔投手のテンポのいいピッチングに翻弄され、とりわけ決め球のスライダーには手も足も出なかった。一方の佐賀北は、2点ビハインドのまま久保貴大投手が毎回のようにピンチを背負いつつ何とか凌ぐ苦しい展開だったが、7回表、ピッチャーの野村に痛打されて更に2失点。7回終了時点で、片や10奪三振の被安打1、片やエース久保がここに来て甲子園での初失点を喫するという、誰が見ても「勝負あり」の図。しかしその後、試合の流れを一変させる「誤審」が最大のヤマ場で飛び出した。
 8回裏、佐賀北は1死から2連打と四球で満塁とし、次のバッターに対して野村投手がカウント1‐3から投げ込んだ5球目、この日一番の球ともいえる真ん中低めのストレートに、主審の判定はなんと「ボール」。試合後に広陵・中井哲之監督が怒りを露わにしたミスジャッジで押し出し四球となり、気勢を削がれた広陵バッテリーは直後にまさかの逆転満塁ホームランを浴びてしまう。
 この日の甲子園球場は、ここまで信じられないほどの躍進を見せてきた佐賀北への大声援に包まれていた。加えて、いわゆる特待生制度問題(アマチュア選手への裏金供与とは全く別次元のこの制度を問題視すること自体が問題であるが)で逆風に曝されていた高野連からすれば、同制度と無縁の公立普通校が優勝してくれればまさに「天の助け」と言えた。そういった空気が判定に影響したかどうかは定かでないし、ましてや佐賀北の選手や監督には何の落ち度もない。が、しかし、「許容限度を超えた誤審」によって演出された“奇跡の大逆転劇”は、両校の明らかな実力差に対する「失礼極まる裏切り映像」だと言わなければならない。

 とはいえ、佐賀北高校の優勝には確たる意義もあった。「やればできるということを教えられた」「逆境でも諦めない姿に心を打たれた」などという抽象的な情緒談はさておき、決して恵まれているとは言えない環境、しかもごく限られた時間で練習せざるを得なかった彼らが高校野球の頂点に上り詰めたという事実の最大の意義とは、これまで絶対不可欠と考えられてきた「潤沢な資金やたっぷりの時間を注ぎ込んだ、最新機器を駆使してのトレーニング」など、実は必要ないのでは? という疑念を我々の中に生じさせたことだろう。

 地球温暖化に代表される環境破壊問題が深刻さを増す昨今、いわゆる「環境にやさしい製品=エコ製品」の人気が高まっている。とりわけ自動車や電化製品など、使用するたびに何らかのエネルギーを消費し温暖化を促すモノについて、その傾向は顕著に見られる。そういう現象自体が好ましいのは言うまでもないが、しばしば指摘されるように、我々が環境保護や温暖化対策を意識してそれに対応する商品を求めるに伴い「エコ市場」という新たなビジネスの舞台が出現し、いかにも自然や地球の未来を憂うような顔をしながら実は商売勘定しか頭にない輩たちによる魔の手が「いつものように」伸びて来ては、我々の購買意欲を必要以上に煽り始める。結果、我々は「エコ」という惹句にまんまと釣られてそれまで持っていなかったモノまで購入したくなり、また既に持っているモノを「より環境にやさしい」モノに買い換えたくもなる。
 だが、より環境にやさしい商品が発売されるたびに買い換えれば、それまで使っていたモノを捨てることにより地球に別口のダメージが加わるし、まして何も使わないより最も環境にやさしい商品を使う方がよほど「環境にやさしくない」に決まっている。つまり、「エコ」なる概念に安易に飛びつくことが却って環境破壊を助長したりもするのだ。
 結局のところ、環境問題を突き詰めて考えれば「どうしても欲しいモノだけを買って出来るだけ長く大切に使い、余計なモノは最初から一切持つべきでない」という当たり前の話に行き着くのだが、それでは、既に所有してしまった「不要なモノ」はどうしたらいいのか。使い続ければ確実に地球の健康を損なうものの、まだ使える段階で捨ててしまってはそのモノ自体がもったいない。この期に及んでは、深い悔恨と罪悪感をもって最善の対処法を考え出すのが、「重大なエラーを犯した者」としてのせめてもの務めではなかろうか。

 ところで、世界のトップスイマーの間では「2軸クロール」という泳法がクロールの主流をなしているそうである。
 従来日本で親しまれてきたクロール(1軸クロール)は、身体の中心線を軸として左右に大きくローリングしながら泳ぐものだが、これだとあまりスピードが出ないだけでなく、身体の構造に合わない動きを強いられるため肩や腰を故障しやすい。それに対し、身体の左右に2本の軸を想定し重心を交互に換えながら泳ぐ2軸クロールなら、関節や筋肉に無理な負担がかからないので身体を傷めにくく、好タイムも望めるのだという。しかも、この二つは全く異なった泳法であるがゆえに、1軸クロールに慣れきった人が改めて2軸クロールを身につけるには多大な困難を伴うようである。
 こういった内容に間違いがなければ、今まで何となく気乗りしないままクロールを敬遠してきたスイマーたちは「身体へのダメージを被らずに済んだ上、より良い泳法をこれから楽にマスターできる」という多重のアドバンテージを、思いもよらず獲得したことになる。

 たまたま何かに着手しなかったことが、結果的に功を奏する場合もある。もちろんそれは理想的な形だが、大抵の場合そううまくいくものではなく、局面々々において何が必要で何が不要かを見極める力が各人に問われる。そんな力を著しく欠くのは、ファンの楽しませどころを全く読めない“日本一のプロ野球監督”や、実りなきFA補強を延々と繰り返す“原っぱの草野球チーム”くらいで充分というものだ。殊に、後者の背後にいる人物などは、余計なことを考えず「わが草野球チームづくり」にのみせっせと精を出していれば、本当にもう「充分」なのである。


'07.秋  東雲 晨





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