「清潔に使いましょう」「汚さないで下さい」――駅やビル内のトイレにある張り紙の常套句である。私の最寄り駅の男子トイレにも同様の張り紙が見られるが、記された文句は一味違う。「いつもきれいに御利用いただき、ありがとうございます」。先に礼を言われてしまうと、人として汚すわけにはいかなくなる。人間の良心をくすぐる実に巧みな言い回しだと放尿しながら感心するうち、かつて聞いたこんな話を思い出した。
 あるところに、入水自殺の絶えない沼があった。“名所”の悪評を払拭するべく、地元の住人たちはあの手この手を用いて自殺者の減少に努めた。もちろん「命を大切に」「望みを捨てないで」といった類の文句を書いた立て札も試してはみたものの、効果は一向に表れない。
 そんなある日、途方に暮れる彼らの中から起死回生の案を発した者がいた。その案を聞いて「これならいける」と確信した彼らは早速新しい立て札を作り、沼のほとりに設置した。すると、思ったとおり効果はテキメン、自殺者は激減したという。
 精神的に追い詰められ、死を覚悟するまでに至った人に「命を大切に」「望みを捨てないで」などと今さらノーテンキに説いたところで聞く耳も持たないだろう。しかし、その立て札に書かれた比類なきひと言が、昇天志願者たちの揺るぎない決意をまんまと揺るがせてしまったのだ。その立て札に書かれた「今日は、よせ。」のひと言が。
 「死にたいのは分かった。止めたりしない。ただ、とりあえず今日だけはやめてくれないか?」。“最後のお願い”じみた妥協案を提示するこの言葉に、決然たる意志がフッと緩んで「しょうがない、今日のところは帰るとするか」とつい引き返し、翌日には気分が落ち着いてもう二度と戻って来なくなるのだ。
 前述したトイレの張り紙とはやや趣が異なれど、両者ともその状況下での人間心理をしっかり捉えてそうせざるを得ない方向へと巧妙に誘う名コピーだといえよう。
 もしもこの両者の要素を併せ持つ仕掛けが施されようものなら、もはや何人も太刀打ちできないはずである。旅人の前にボロボロの身なりで現れ、寒さに震えつつすがるような泪目でじっと彼のコートを見つめ、「ほかには何もいらんけぇ、その上着だけ下さらんかのう、あんたはほんに優しいお方じゃ……」と微笑むような泣き顔で呟く老婆などには、北風だろうが太陽だろうが手も足も出はしまい。


'02.秋  東雲 晨





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