新年早々、東京・渋谷で「兄による妹バラバラ殺人」というド派手な事件が発覚した。犯人は歯科医師一家で育ち、自らも歯科医になることを義務づけられた予備校生で、事件に関する報道の中には、彼が通っていた医科歯科系予備校の授業料が300万円にも上るという件(くだり)があった。こんな事実が報じられるにつけ、受験(とりわけ医学部などの難関学部受験)においては湯水のごとく金を注ぎ込める境遇にある者が絶対有利と捉えられ、所得格差による不公平さが取り沙汰される。そういう現状は確かに否定できないが、このところ、受験事情にも変化の兆しが見られるようである。

 かつて大学といえば、純粋に頭脳が優れ、なおかつ何らかの目的意識を持つ者だけが入ろうとする場だった。純粋に頭脳の優れた者などそう多くいるものではなく、また大学で勉強する必要にかられない者は最初から大学受験など考えなかったため、受験生はごく一握りの者に占められ、当然そこには貧富の差などほとんど影響しなかった(強いて言えば、私立大学に入って高額な授業料を支払うには裕福でないと難しかったが、その場合も受験勉強そのものに金がかかったわけではない)。
 しかし、サラリーマン社会の台頭に伴い学歴が就職の武器として位置づけられるようになると、誰もが大学受験に参入し始める。それにつれて入試は徐々に変容し、本質的な頭の良さとはまた別の、いわゆる「受験学力」なる不毛な能力が問われるようになっていった。しかもその「受験学力」は訓練次第で習得できる類のものであるがゆえに、一流大学といえども金や時間さえかけて真剣に取り組めばそれこそ大抵の者が合格し得るという、何とも価値の低いものになってしまった。ただ、この時代に要求された「受験学力」は過剰なまでに難度が高く、費やすことを強いられる金と時間と労力は生半可なものではなかった。
 そして、今。先の見えない不況の中、大衆がどんどん保守化して安定を望むあまり、受験という領域での向上心や冒険心すら希薄になり、受験生は親子ともども目標大学を低く設定する傾向にある。もちろん学歴は何としても欲しいし、そのために相変わらず膨大な金と時間を割きはするものの、夢が持てないとされる時代を忠実に反映し、受験においてさえも大志を抱かなくなってきたのだ。そのせいもあり、全体的な受験学力のレベルはここ数年で急落したと指摘される。言い換えれば、大学のランクの上位下位を問わず「合格へのハードルが下がった」わけである。
 純粋に頭脳の優れた者たちが一流大学に集(つど)った時代から、潤沢な金と時間を擁する者たちが一流大学を席巻した時代を経て、図らずも「不毛な受験学力」が以前ほど要求されない時代に突入した。これは、“我こそは”との自信を抱く有能な若者たちに、「受験勉強」をさっさと片付けた上で「感性」や「思考力」――受験学力などの遥か上空にある、彼らの“本題”とも呼ぶべき力――を研ぎ澄ます余裕が与えられているという、実に好ましい状況だと言えるのではないだろうか。

 ところで、冒頭の「兄による妹バラバラ殺人」は、それと前後して同じ渋谷で起こった「妻による夫バラバラ殺人」のせいであっという間に霞んでしまい、さらには京都・神奈川での「親せき連続殺人」がすぐさま後者に取って代わった。少し前なら大騒ぎになったような衝撃的な事件が、いまや次から次へと忘れ去られるくらい日々量産されていく。そんな「犯罪市場」の未曾有の活況を見るにつけ、そこに注がれるエネルギーのごく一部でもプラス方向に転用できたら世間の景気はさぞかし潤うことだろう、などと不謹慎な思いすら湧き出てくる。
 些細な動機でいとも簡単に人を殺す現代人については、刺激の強いゲームやテレビ番組などのバーチャルな世界に浸りすぎて生と死の境目が曖昧になり命の重みが分からなくなってきているのだ、などという尤もらしい分析が下される。だが、そんな風に分析したがる人たちの多くもまたある種のバーチャルな世界に棲んでいるということに、ご本人たちはお気づきであろうか。

 元アメリカ副大統領であるアル・ゴア氏は、地球温暖化についてのスライド講演を世界各地で続けている。その講演の様子を収録したドキュメンタリー映画『不都合な真実』が日本でも公開され、作中でゴア氏は「地球温暖化はもはやのっぴきならない段階にまで来ており、今すぐにでも対策のための行動を起こさないといよいよ手遅れになる」との警鐘を鳴らしている。この種の提言に触れた人はこぞって危機感を新たにするが、大抵の場合「何とかしないといけないんだ」と頭で考えるところで完結してしまう。まるでそう決意すること自体が一つの自己陶酔、ないしは“快楽的ファッション”ででもあるかのように。
 二酸化炭素の排出過多が主因と見られる地球温暖化は、ハリケーンや熱波といった甚大な自然災害に繋がるのみならず、鳥インフルエンザやSARSなどの新型ウイルス発生にも深く関わっているようだが、我々はそれ以外にも今日(こんにち)ならではの色んな危機的状況に見舞われつつある。先に述べたような個別の事件から大規模なテロまで含めた“親・殺人”社会、好戦的な政府によって現実味を増す戦時の気配、それにいつ訪れてもおかしくない大地震や火山噴火……いずれも生命レベルの大問題である。にも拘らず、巷で騒がれる心配の種といえば、格差に年金に少子化に不景気。この世が平穏無事であればという前提のもとに初めて成立するような規模の問題ばかりである。
 それらもそれなりに切実であるとはいえ、そんなことを懸念する前にもっと根幹部分を何とかすべきはずだが、根幹部分についてはほんの口の端に上らせるだけで済ませようとする。平和ボケにより危機感が欠如しているのは明白だし、「あまりにも大きなことについて考えるのは荷が重いから、敢えて直視したくない」という自己防衛本能が働いている面もあるだろう。だが、例えば今にも空襲に遭いつつある人物が隣近所との人間関係に必死に悩んでいるかのごとき姿は、何やら滑稽ですらある。
 大いなる危機がすぐそこにまで迫っていることを誰もが頭で認識してはいるものの、日々(にちにち)の実生活へと意識を向けた途端に視界はみるみる狭窄化する。と、そんな危機など遠い世界のフィクションくらいにしか感じられなくなり、ついには今までどおりの平和な状態が永続すると信じ込んでしまうに至る。こういった生態は、まさにバーチャル・リアリティの中で蠢く住人ならではのものだ。
 ただし、現代人にも言い分はあるだろう。こんなストレスフルな時代、地球環境なんかのことにまで気を回す余裕はない、と。
 地球温暖化という人類史上空前の危機的状況をもたらした科学の進歩や技術革新は、同時に史上空前のストレス社会をも現出させた。文明の進歩が生んだ「ストレス社会」が、同じく文明の産物である「地球温暖化」への抵抗意欲を萎えさせることで、温暖化に拍車がかかる。その結果、CO2排出の元凶である人類が滅亡すれば、そこでようやく温暖化に歯止めがかかる。こんな皮肉な流れもまた、大きな意味で“自然の摂理”だといえよう。そして、その“摂理”の為すがままに終わってしまうか、それとも見事に撥ね返すことができるか――命運の鍵は、“研ぎ澄まされた若者たち”に託されているのかもしれない。     


'06-'07.冬  東雲 晨





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