愛媛県・宇和島徳洲会病院の万波誠医師が、自らの施した生体腎移植手術をめぐって渦中の人となっている。今回のケースでは癌患者から摘出された病気腎を移植していたことが問題視されている訳だが、現に手術を受けた人たちからは万波医師への感謝の声が数多く寄せられ、また臓器移植という治療行為そのものに対する世論やマスコミの反応も概ね肯定的なようだ。
 現状において移植を除く腎臓治療法といえば人工透析しかないのだが、これは1回につき数時間の処置を週3回、それも一生涯にわたって受け続けることを余儀なくされる。そんな繰り返しが本人や家族に途轍もない苦痛や負担を強いるのは重々わかるし、それを避けるためなら如何なる手段も厭わないという心情も察するに余りある。
 そこで、腎移植手術。移植に同意するドナーから提供された腎臓を、それを必要とする人に移植することで、その人は人工透析を免れ元どおりの健康な生活を取り戻すことができる。執刀医師と提供者も最大級に感謝され、一見すると合理的で、いわゆる近江商人流「三方良し」のごとき美談が完成する。が、果たして本当にそれでいいのだろうか。
 人間の身体とは、単なる各パーツの寄せ集めではない。ある人の持つ身体器官の悉(ことごと)くがその人と切り離せない固有のものであり、それら全体をひっくるめて一つの肉体が成立する。大量出血した際に施す輸血などはあくまで一時的な処置であり、やがては再び自力で作った血がその人の全身を満たすが、移植された他人の臓器はいつまで経っても異物に過ぎず、その人のものになることはない。それは実際に臓器が生着するとかしないとか、拒絶反応を起こさないとかいう次元以前の話なのだ。
 「命を粗末にしてはいけない」「とにかく生き抜くことが大事」といった大原則も、決して万能ではあり得ない。医学の進歩により延命は際限なく可能になっていくが、どこかで歯止めを利かせるのが人間としての品性ではないだろうか。それでも健康に長生きしたいのであれば、治す側も治される側も、やはり自前の臓器を治癒させる方向で活路を見出すべきではないかと思う。

 切っても切れないものがあれば、そうとは言えないものもある。

 プロ野球・広島東洋カープの黒田博樹投手が、今年のシーズン中にFA(フリーエージェント)の権利を取得した。もしFA宣言すれば、大阪出身の黒田投手獲得に向けて阪神タイガースが名乗りを挙げるのは必至の情勢だったが、彼は悩んだ末に権利行使せぬままカープへの残留を決め、その理由に「自分を育ててくれたチームへの愛着」を挙げた。
 一方、同じくFA権を取得した北海道日本ハムファイターズの小笠原道大選手は、自チームを日本一へと導いて後、10年間在籍した古巣を去り読売ジャイアンツに移ることとなった。表向きには「ファイターズよりも1年長い4年契約を提示してくれたジャイアンツの誠意」を移籍の理由とするものの、「実家と持ち家のある千葉に本拠地が近いチームへの入団をかねてより希望していた」との見方にも高い信憑性が寄せられている。
 もちろん他にも色んな事情はあるだろうが、上記の理由だけを見れば、黒田は故郷でなくプロ入り以来の所属チームへの愛着を、逆に小笠原は所属チームでなく故郷や家庭との結び付きを重要視したことになる。つまり、いずれの場合も何らかの点において「地元であること」が決め手となったわけだ。
 カープのファンから「よくぞ広島に残ってくれた!」と絶賛される黒田は、片や甲子園の阪神ファンにしてみれば「なんで大阪出身やのに阪神に来ぃひんねん!?」ということになり、小笠原は「北海道を盛り上げてくれた直後の退団は極めて残念」とファイターズファンを大いに落胆させた。ここには、ファンの側にも「地元を第一に考えるべき」という感覚が色濃く窺える。
 プロ野球選手が所属球団を自由に選んでいいとなった場合、条件や待遇(多くの場合は未だにカネ)、それに環境や相性など様々な要素が挙げられ、あくまでもそのうちの一つが「本拠地の場所」である。しかし「地元球団にずっといるべき」と考える多くのファンからすると、広島に残る黒田は「男を上げた」ことになり、札幌を去る小笠原は「男を下げた」と見なされる(小笠原の場合は、移籍したこと自体のみならず移籍先にも多分に問題があるのだろうが)。
 また、誰かが特定チームのファンになる場合、「好きな選手がいる」「チームカラーが気に入った」など諸々の動機があり、「地元である」はその中の1ケースに過ぎないはずである。なのに「地元球団を応援するのが当然」との風潮が、このところ必要以上に勢力を強めてはいないだろうか。
 サッカー界ですっかり定着したフランチャイズ制に追随するべく、プロ野球界でも「地域密着」を前面に出したチームが増えている。広島や福岡、それに千葉などでは以前からそういった特色を売りに地元ファンとの密接な関係を築いてきたが、最近では“プロ野球不毛地帯”だった北海道、東北にも地域密着球団が立派に根付き始めた。それに加えて、四国アイランドリーグを皮切りとする独立リーグの発足や「欽ちゃん球団」などのクラブチーム創設により、日本中の至る所で“おらがチーム”が急速に浸透しつつある。こういった動き自体は、プロ野球人気の向上、ひいては野球そのものの普及という面で非常に好ましいものだといえよう。しかし、そこから生まれる「地元びいき」の気運が熱を帯び過ぎた挙句、昨今とみに巷で盛り上がる「地域ナショナリズム傾向」に油を注ぎ、さらにそれが国家主導の危険なナショナリズムをも燃え上がらせる一助になったりしたら――こんな懸念は、あまりにも心配性にすぎるのだろうか。

 西武ライオンズの松坂大輔投手、阪神タイガースの井川慶投手、東京ヤクルトスワローズの岩村明憲選手と、今年もポスティング・システム(入札制度)を利用しての大リーグ入りを目論む日本人選手が続出した。「スター選手のアメリカ流出が日本野球界を危機に導く」との声は多く、なかには「日本球界で育ててもらったのだから、日本に居続けるのが道理」といった苦言すら散見される。
 しかし、日本のプロ野球界が現実的に日本人選手の活動できる最高峰の場だった時代ならともかく、その上のメジャーという舞台が手の届くところに設定されている今、日本で実績を挙げた選手たちがそこを目指したくなるのはむしろ当たり前だといえるだろう(余談ながら、「人材流出は日本の恥」と激怒した監督の率いる球団が、台湾からエース級投手を引き抜いたのは、洒落か何かのつもりだろうか)。
 大リーグ側から支払われる入札金や年俸の高騰ぶりは明らかに常軌を逸したものだし、日本マーケット拡大という強(したた)かなアメリカン・ビジネスの一環として日本人選手が利用されているという側面もあるだろう。が、そういった諸問題はさておいて、力のある選手をどんどんメジャーへ送り込み、その一方で次から次へと新たな逸材を輩出し続けることが、結果的には日本球界の活性化へと繋がるのではないか。せっかくの優秀な人材を一定の枠内に閉じ込めておいてはそれ以上の伸びが期待できず、本人にとっても周囲にとっても好ましいものではない。それに、優秀な人材が枯渇した状況下にこそ新しい芽が息づくことも往々にしてあるのだから。
 今季限りでユニフォームを脱いだ新庄剛志氏は、今から3年前の日本球界復帰に際してこんな意見を述べていた。「日本人選手はどんどんメジャーに渡ればいい。でも最終的には帰って来て、本場で吸収したものを日本球界に還元すべき。でないと、日本の野球はつまらなくなる」。結局のところ、この辺りが最も妥当な見解ではないかと私も思う。もっとも、「日本球界には絶対に戻らない」と豪語する野茂英雄投手のように、「一度ある場所から羽ばたいた以上、元の場所へは二度と降りて来ない」のも、あるいは“恩返しの一形態”と呼べるかもしれないが。

 同じ領域に収まり続けるのを良しとする感覚。
 同じ段階に留まり続けるのを良しとする発想。

 近しいものとの結びつきを称して「絆」と呼ぶ。この言葉、一種独特の美しい響きに包まれてはいるものの、同時に“動物をつなぎ止める綱”という恐ろしい意味をも併せ持つことを忘れぬようにしたい。
                

'06-'07.冬  東雲 晨





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