ボクシング中継としては歴代2位の高視聴率を叩き出した、世界ボクシング協会(WBA)ライトフライ級王座決定戦、ファン・ランダエタ(ベネズエラ)×亀田興毅は、順当な予想どおり亀田の「疑惑の判定勝ち」に終わった。両選手の実力差やジャッジの公正さを云々する以前に、もっと大きな力が作用した末の新チャンピオン誕生であることは明白で、日本ボクシング協会やテレビ局は今後も亀田という優良商品を手厚く扱うことだろう。ただし、彼が「ゼニのなる木」であるうちは。
 何も知らない子供に何も教えないままさんざん勘違いさせた挙句、商品価値がなくなれば手のひらを返すように冷遇する――こんな不埒な振舞いは、たとえばプロ野球の世界においても、まるでお約束ででもあるかのように罷り通っている。
 プロ野球ドラフト会議で交渉権を得た高校球児に入団を乞い、大の大人である各球団のスカウトが何度も足を運んでは年端もいかぬ小僧たちに頭を下げる。ところが、そのように拝み倒して獲得した若い選手がいざ故障や不調の憂き目に遭えば、さっさと使い捨てて次の獲物へと食指を伸ばす。
 基本的な礼儀や躾は厳しく施し、何かにつまずいた際には優しく手を差し伸べるのが、大人から子供への適切な教育というものだろう。それを逆に変なところで甘やかし肝心なところで突き放すのが昨今見飽きた教育崩壊の図であり、そこに商売勘定が絡むと事態はさらに醜悪化する。件の試合の終盤、相手選手の猛攻を浴びた後、ラウンド間にコーナーで顔をクシャクシャに歪めた亀田苦悶の表情は、穢(きたな)らしい大人たちに蹂躙される不憫な赤子の夜泣きにも見えた。
 ……と、亀田戦についてごくオーソドックスな見方をすれば以上のようになるだろう。だが、果たしてコトは本当にそれほど単純だろうか。
 着目すべきはやはり亀田の口の利き方である。いくら視聴率が取れるとはいえ、たかだか十代の若造が公の場でチンピラのごとく倣岸不遜に振舞うのを、一癖も二癖もある「業界のオトナたち」が許し持ち上げている絵面は、どう見ても不自然この上ない。もしかすると、一連のやり取りはあくまで何らかのシナリオに基づいたものであり、テレビに映っていない部分ではごく普通の大人と子供の会話が行われているのではないだろうか。つまり、

 「ワレ、なんじゃい、コラァーッ!」
  ――はい、カット〜。
 「ありがとうございました〜。」
 「亀チャン、今のリアルっぽくてスゴイ良かったよ〜」

 といったふうに。タイトル戦の後、テレビで見せる言動からは想像もつかないような亀田の繊細で緻密な面が次々と報道されるにつれ、その「疑惑」は私の中でますます膨らんでいく。仮にそれが正解だとしたら、彼のキャラクターはボクシング界やテレビ界のみならず、彼自身や彼に批判的な立場をとる人たちまでもが全員キャストやスタッフを任じて、すなわち皆がグルになって作り上げたストーリーの1パーツだということになる。
 演劇やプロレスとは異なり純然たる競技であるボクシング、それも気高さや純粋さにかけては他の追随を許さないはずの“拳闘”が、そんな俗っぽい舞台仕掛けにより自身の品性を貶めてまで商売に走ったのだとしたら、それこそ醜悪の極みだというべきか。それとも、そこまで興行として追い詰められている以上、致し方のない措置だと許容すべきなのだろうか。

 さて、その対戦相手のランダエタ選手を生んだベネズエラでは、「脱アメリカ」を前面に打ち出すチャベス大統領の左派政権が、莫大な石油収入を背景に社会主義革命を進めている。経済再建のために受け入れてきた「規制緩和」「民営化」「外資の導入」などのアメリカ新自由主義経済が、逆に独裁政権を生み格差の拡大をもたらしたとして、民衆の不満が爆発し始めたのだ。チャべス氏は教育や福祉などに力を尽くして国力の底上げを図り、「平等で公平な社会」を着々と描き出していく。
 こういった左派政権誕生の動きはベネズエラのみならず、ボリビアやブラジル、それにアルゼンチンやチリなど、南米中で次々と広がりつつある。先住民の農家に生まれたボリビアのモラレス大統領は、アンデス高地で“神の葉”と呼ばれるコカ葉栽培の拡大と合法化を公約に掲げ、天然ガスなど地下資源の国有化を唱えている。またルーラ大統領のブラジルでは、石油の代替エネルギーであるエタノールをサトウキビから生産する技術開発に成功、その栽培方法をアジアやアフリカにも伝えて国内のみならず世界規模での貧困撲滅や雇用拡大に役立てようとしている。
 われわれ日本人は、自国の有様を見るにつけ、もはや政治で世の中は変えられないとの諦念を抱きがちだが、それはあくまで日本や欧米先進諸国の実態から導き出した結論にすぎず、チャベス大統領らのような政治家が今の時代に実在し活躍する(もちろん問題点もそれなりにあるだろうが)のを知れば、日本人の基準のみで物事を判断するのが如何に浅薄かつ拙速であるかを痛感させられる。また、社会主義の欠点ばかりを指摘してやたらと民営化を謳う政治家が多いが、何でもかんでも民間の手に委ねて商業主義のもとに曝さずとも、要は政府がしっかりしていれば済む話だということも分かる。逆に言えば、国が民営化を叫ぶのは自らの無能さを喧伝しているようなものだ。
 しかしながら、政治家だけに全責任を負わせる訳にはいかないだろう。先述した南米の例からも明らかなように、社会を変えるには民衆の力や豊富な資源の存在があってこそ可能な部分が多々あり、日本には立ち上がる民衆もいなければ対外的に強気に出られる資源もないのだから。
 「立ち上がる民衆の不在理由」については、以下の会話に集約されるであろう。

 「なぜ日本人は立ち上がらないの?」
 「もともとが農耕民族でムラ社会だから、周囲と違う目立った動きは起こしにくいんだよ」
 「でも、一昔前の日本なら全共闘や学生運動、デモやストなんかがしょっちゅうあったでしょ。なぜ今はないの?」
 「それは、数十年前は日本も今ほど豊かじゃなかったから、その分ハングリー精神が強かったんだよ」
 「でも、今のフランスなんかも物質的には豊かなのに、こないだ学生が暴動を起こしてたよ。なぜ日本人は豊かになると闘えなくなるの?」
 「それは……日本人とはそういうもんなんだよ」

 戦後、日本は歴史上にも類を見ない驚異的なスピードでの復興を果たした。その異常ともいえるモチベーションがどこから生まれたのかは定かでないが、兎にも角にも高度経済成長期やバブル時代を闇雲に駆け抜ける中で、現代日本の姿は極めて歪(いびつ)なものに成り果ててしまった。資源もなければ抵抗力もない、外国に頼らねば存続できない、なのに金だけはたっぷりあるという、それこそ「たかってください」と言わんばかりの形が出来上がり、事実、多方面からさんざん「たかられ」てきた。敗戦以来アメリカの言いなりになり、中国や韓国からは事あるごとに戦争責任を問われ、そして北朝鮮からはミサイル発射の第一標的とされる。
 ただ、従来はその都度「カネ」で解決すれば済むレベルに留まっていたものの、昨今では外資ファンドやM&Aといった新手の波に襲われ、平和主義や戦争放棄を堅守してきた日本国憲法さえもが侵略の危機に瀕するまでになっている。歓迎すべき脅威もあれば撃退すべき脅威もあるが、いずれにせよ、日本の在り方の根幹部分が揺さぶられる段階に来ているのだ。これは、日本という国の国際的な位置付けを考えれば必然的な流れであり、もっと意地の悪い言い方をすると、これまで何とか安泰を保てていたことの方がむしろ不思議なくらいである。根本的な解決を施さぬまま、様々なゴミ箱の上で臭いものを塞ぎ続けてきた「フタ」たちが、いよいよあちこちで軋み声を上げ始めたのだろう。
 あの戦争がなければ日本はもっと健全で緩やかな発展を遂げていたはずだし、現状のごとき“分不相応で無理矢理な先進国”には仕上がっていなかっただろう。そういう意味でもあの戦争は(無論「すべての戦争は」であるが)間違いだったということになるが、だからとて後戻りする訳にもいかない以上、先々に向けた何らかの切り返しが是非とも必要になってくる。それは極めて困難な作業であり、もはやそこには今までの常識や慣例では考えられないような手段が要求されるだろう。ただし、それは黙っていればある日突然見つかるようなものでなく、やはり現時点で考えられる最良かつ最大の努力を続けた先にこそ何らかの形で見えてくるものではないかと思う。

 ところで……話は冒頭に戻るが、亀田選手をチャンピオンに仕立て上げるため、日本ボクシング協会やTBSなどから巨額の「見返り」がベネズエラ側へ渡ったとの憶測も飛んでいる。そんなジャパンマネーが結果としてチャベス政権の懐を多少なりとも潤すことになるとすれば、それはそれで有意義な国際貢献のひとつだと賞賛されるべきだろうか。それとも、「ボクシング自体の矜恃を棄ててまで社会に寄与するなど、あまりに行き過ぎた自己犠牲行為だ」と非難されるべきなのであろうか。
                

'06.夏  東雲 晨





inserted by FC2 system