「野球世界一決定戦」として先ごろ第1回大会が開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、日本代表チームの“奇跡の逆転優勝”で幕を閉じた。アメリカ有利に仕組まれた大会への各国チームの反発が間接的に日本に幸いしたわけだが、それにしてもオリンピックといいワールドカップといい、普段は国のことなど考えてもいないような今の多くの日本人が、スポーツの国際大会に際してのみ思い出したように母国の応援に熱狂する姿には、毎度ながら感心させられる。他国に比べればなんとも無邪気な風景だが、無邪気さとは往々にしてタチの悪いものである。

 主に宗教に裏打ちされた愛国心を持つ民族・国民は、世界中に数多く存在する。彼らの愛国心には、それこそ我々など及びもつかない根強さがある。期間限定の“にわか愛国者”である日本人よりは、主義主張の揺るがぬ彼らの方が遥かに高潔かもしれないが、いずれにせよ愛国心はいとも簡単にナショナリズム(昨今この言葉は、国粋主義――自国の優秀性を誇大に主張する排外的な考え方――とほぼ同義で用いられるようだ)へと繋がり、そしてナショナリズムとはせいぜい諍いの種くらいにしかならない難物だと言っていいだろう。付け加えるなら、それは「宗教」を広い意味での“信仰心”でなく個別の“宗派”と捉えた場合にも当てはまる話である。
 自分が生まれ育った国に愛着を抱いたり大切にしたりするのは人間として自然な感情だし、自国文化の長所に誇りを持つのも麗しい姿勢である。ましてや、他国で長く暮らしている人がそうした思いを一層強めるのは無理からぬところだろう。しかしながら、それらと「ナショナリズムに凝り固まること」とは全くの別物である。
 政府に煽られるまま無分別に反日ナショナリズムを叫ぶ近隣国の民衆に対し、日本人は少なからず愚かしさを感じていよう。その愚かしい相手に同じ次元で対抗心を示す時点で、彼我のレベルは似たようなものだということになる。良くも悪くも愛国心の比較的薄い現代の日本人であればこそ、「他国の長所を尊重したうえで自国の長所を主張する」という次元での“大人の対応”ができて然るべきではないだろうか。
 例えば野球に関していえば「アメリカン・ベースボールの粋な華やぎはさすがに魅力的だし、韓国ならではの滾(たぎ)るような激情野球も見応えがあるけれど、試合運びの精緻さにかけては日本野球に一日の長があり、我々としては日本代表のそういう部分を応援したい」。この辺りでいいではないか。それを、「日本の野球は全面的に優れており、日本こそが勝つべき国であり、日本人なら無条件で日本代表を応援する義務がある」などと鼻息を荒げる様は、ことあるごとに北朝鮮拉致問題を持ち出して国民のナショナリズムを発揚したがる現政権の“忠実な代弁者”さながらである(もちろん拉致問題は絶対に解決しなければならないが、それを国内統治に“利用”するのは不謹慎というものだ)。
 そもそも、人間の情愛とは肉親や親友、それに郷土くらい近しい対象にこそ注げるはずの個的なものである。つまり国や国家のような漠とした対象に同じように注げる類のものではなく、もしそのようなものがあるとすれば、それは愛でなく「強大なものへの従属に由来する安心感」だといえよう。ましてや今回の教育基本法改正案のように、国家が介入して国民に「祖国を愛せよ」などと強いる筋合いのものでは毛頭なく、その狙いがどこにあるかは極めて明白だと断じざるを得ない。
 戦争とスポーツでは話が別だという意見もあるだろう。だが、国というものへの根本的なスタンスの取り方に何ら違いはない。スポーツの国際大会でよく耳にする、「日の丸を背負って」だの「国が一つになって」だのといった薄気味悪いフレーズの行き着く先に何があるかなど、いちいち考えてみるまでもないだろう。

 ところで――WBCにおいて、ある日本人選手が吐いたコメントに逆上し“憎き日本”に2連勝した韓国代表チームが、準決勝進出を果たして兵役免除をほぼ確実なものにした直後の3度目の日本戦では明らかに士気が下がり、信じられないほどあっさりと敗北を許した。「3度もやれば1度くらいは負ける」とも言えようが、穿った見方をすれば、あたかも「国のために試合に勝ちたい」という気持ちよりも「国が戦争に勝つための苦役から逃れたい」という気持ちの方が強かったかのようだ。愛国心の実態など所詮はその程度のものであり、またそれでこそ健全至極な在り方だ、と私は思う。


'06.春  東雲 晨





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