ライブドア絡みの報道が、今なお巷を騒がせ中である。堀江貴文前社長の一連の活躍について「既成の概念を壊した」「拝金主義を促した」などの功罪が叫ばれてきたが、最も目に見えやすい影響はネット投資家の急増という形で表れているだろう。彼の登場によって株が身近なものとなり、今まで株にさほど縁のなかった人たちまでもがインターネットを通じての株式売買に参入し始めた。
 そんな「素人デイトレーダー」の中にはニートと呼ばれる若者も多く、彼らは自宅でパソコンの画面をにらみキーを叩くだけで時に億単位の利益を挙げたりもする。そういう風潮に露骨な嫌悪感を示す人たち曰く「本来、人間はもっと額に汗して働くべきものだ」。それに対してデイトレーダーたち曰く「こんな時代じゃ、努力したってどうせ報われない」。どちらの言い分にも一理あるようだが、両者についてもう少し考えてみよう。
 「額に汗して働け」。では、たとえ方向が誤っていても努力さえすればいいのか、という話にもなる。実際、高視聴率を獲る方向に尋常ならざる努力をみせるテレビ局の会長が、堀江氏の放送局株買収工作に対して「放送の公共性」云々を持ち出すと、「視聴率のためにくだらない番組ばかり作っておいて、何を偉そうなことを」と大いに叩かれたものだ。
 それに、そもそも「濡れ手に粟」のボロ儲けをしている輩など世間には幾らでもいるだろう。「額に汗」を象徴するサラリーマンの世界とて例外ではない。何につけても上に甘く下に厳しい日本では、年功序列の名のもとに一つの会社に長くいさえすれば過分な収入が保証されてきた。大した技能のない人材が大した努力もなしに、衣食住足りてなお余りある待遇を当たり前のように供される現実。こんなモラルハザードも、充分「濡れ手に粟」である。
 「努力しても報われない」。格差拡大が進む今の日本では、敗者が巻き返して勝者に転じることなど事実上不可能だ、というわけである。しかも勝者・敗者は最初から決まっていて、富裕層でない家庭に生まれた者はいわゆる良い学校に入れないから、いくら頑張ってみたところでいわゆる良い職業に就くこともできない、と。
 金持ちの子女のみに高等教育が許される、そのこと自体は確かに重大な問題である。ただ、それはあくまで教育という領域での話であり、観点を「世俗的成功」に移すとまた話は変わってくる。
 貧乏人は高等教育を受けられないからずっと貧乏なままだというのは、大まかに言えば「一流大学から一流企業へ」という流れ、ひいては「裕福になる=会社組織内で出世する」という図式を前提にしたものだ。つまり「そのコースを通る以外金持ちになる道はない」と頭から認めているようなものであり、こんな発想に囚われている時点で「旧いシステムに負けている」のではないか。
 一部の「富める者」とその他大勢の「貧しき者」との二極化が進み、前者のみに高等教育が施されるのだとしたら、高等教育を施されない後者が社会のマジョリティを形成することになる。つまり、ほとんどの者が「一流大学から一流企業へ」というコースを通らずにのし上がる手段を講じてこそステータスを上げられるわけだ。これは見方を変えれば、自虐的かつ他虐的な「安定最優先の職業選び」や、すっかり空疎化した学歴社会そのものを根こそぎ覆すような動きに繋がる絶好の機会だともいえる。なのに、格差社会化への抵抗手段が「株で軽く一儲け」では、せっかくのお膳立てが台無しではないか。折しも先述のごときモラルハザードな連中を生んできた年功序列が崩れつつあるという追い風すら吹く中で、「ルール上問題ないから別にいいだろう」などと居直っているようでは、連中と目糞鼻糞であまりに志が低すぎるというものだ。

 ともあれ、堀江氏は成り上がりにありがちな舞い上がりが昂じた末、あえなくオーバーランしてしまった。あまりに強引な手法で保守的な旧世代の反感を買いすぎ潰された点では「賢くなかった」と言えるだろうし、また彼が金儲け以上のビジョンを持っていたかどうかも分からない。だが、彼自身の価値はさておき、彼の起こした行動が結果的に種々の問題点や可能性を抉り出してくれたのは事実である。そしてそれら“想定外の産物”こそ、ホリエモンの四次元ポケットから繰り出された中で最も有用なアイテムだといえるかもしれない。そう、我々がそれをクリアして“次なる扉”を開くための。


'06.春  東雲 晨





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