ボビーが帰って来た――。今年のプロ野球は千葉ロッテマリーンズの快進撃に終始したと言っていいだろう。今シーズンから始まったセ・パ交流戦では初代王者チームに輝き、ペナントレースでも常勝球団の福岡ソフトバンクホークスと熾烈な一騎討ちを展開。プレーオフではそのホークスとの接戦を制してリーグ優勝を果たし、さらにセ・リーグ覇者の阪神タイガースに4連勝して31年ぶりの日本一へと上り詰めた。この目醒ましい躍進ぶりを演出したのが、昨年から復帰したボビー・バレンタイン監督の采配であることは疑いようがない。

 バレンタイン監督は今から10年前の1995年に初めてマリーンズの監督となり、弱小チームをいきなり優勝争いに放り込んで野球ファンの度肝を抜いた。残念ながら球団首脳とのゴタゴタにより僅か1年で日本球界を去ることになったが、その鮮烈な印象は根強く残り続け、ついに昨年カムバックが実現したわけである。とはいえ、ここ10年でのFAや逆指名制、有力選手のメジャー流出などによるチーム戦力差の拡大は著しく、バレンタイン第2次政権の1年目がBクラスに終わった際には「さすがのボビーもお手上げか」と思われた。だが、心配も束の間、2年目となる今年の強さは先に述べたとおりである。
 彼の采配において特筆すべきは、現有戦力1人1人の個性や特色をしっかり捉えて最大限に伸ばすのはもちろん、千変万化する局面に応じてその時どきでの最高のプレイを選択する力を選手たちに植えつけたことだろう。しかも彼は、同一選手に対してもその日その時の調子や状態を見極め、「昨日の君はここがよかったが、今日の君はここがいい」といった流動的な接し方を試みる。それによって各選手は幾通りもの顔を持つ存在となり、チームとしてのバリエーションは格段に広がる。結果、すべての日替わりオーダーがそれぞれ“再現不可能な表情”を見せ、例えばある試合で数人の主力選手が欠けていても全く違和感がないといった余裕すら生まれるのだ。これは、今までになかったタイプの「層の厚さ」だと言えよう。
 また、「個々の持ち味を活かしきる」という機軸は、選手のみならず戦術にも適用される。例えば、バレンタイン監督はスクイズという作戦をしばしば敢行するが、この「セコい得点手段」の代名詞的存在である戦術が、彼の手にかかれば「芸術的な一手」へと早変わりする。試合の流れの中でスクイズが最も光り輝ける見せ場を与えられ、惚れ惚れするほど鮮やかに決まるからだ。
 やや方向は逸れるが、彼の采配から私は推理小説の傑作群を連想する。まず人間心理の動きを知り尽くした人物が緻密なトリックに裏打ちされた犯罪を遂行し、そこに名探偵シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロが颯爽と登場する。彼らは取るに足りない手がかりや何気ない会話の端々を集約して推理を進め、計算し尽くされたトリックをものの見事に破ってみせるのだ。この場合、持てる価値を目いっぱい引き出されるのは、人材や戦術でなく“事実の断片”たちである。

 個々の持ち味を臨機応変に活かし、それを実戦で存分に発揮し、しかもやる側と観る側がともに楽しめる――これがバレンタイン監督の浸透させた野球だが、その根幹には「相手の微妙な呼吸の変化をいかに読み取り対応するか」という姿勢がある。これは「人との高度な関わり方」と換言することもできるだろう。では、人でなく「モノ」を相手にする場合はどうだろうか。関わる対象が人である場合とモノである場合との相違点、および「モノとの高度な関わり方」について、少し考えてみたい。

 例えば、金銭との関わり方。多くの人は大金を持つと目がくらみ、たちまち金と「ベッタリ」の関係に陥ってしまう。斬新なビジネス方式を導入して時代を変えるかに見えた人物が、儲かるに従い単なる営利目的へと落ち着いていく例もままある。そういった惨状を回避するには、ゼニカネの使い方、あるいはゼニカネとの「距離のとり方」をしっかり把握しなければならない。
 金を使うべきこと、金でしか解決できないことには惜しみなく注ぎ込み、金で解決すべきでないこと、金ではどうにもならないことには一転して他の手段で応じる。つまり金の力量とその限界を知り、利用できる範囲内では存分に利用して、それ以上のことは一切要求しない。金とは元々そういうものだ、とわきまえることが不可欠で、その辺りが生身の人間を相手にする場合との決定的な違いだと言える。人との関わりにおいては、限界の設定や距離のとり方に一定の線引きなど為し得ないからだ。
 ここでお金を使うのは自分にとっても金にとっても好ましくない、というような局面では金輪際使わないことによって、お金といい関係を保つことができる。それでこそお金の“ありがたみ”を噛みしめ、同時に「ゼニに溺れる」という危険性からも遠ざかっていられるのではないか。
 同様なことが、アルコールやメディアなどと関わる場合にも言えるだろう。どんな状況で、どのくらいの量を飲めばいちばん「うまい酒」を味わえるのか。どこまでを必要な情報として取り込み、どこからは人間が自らの頭や感覚で判断すべき領域なのか。ベッタリの関係にならず、その時々において対象との間に最も相応しい距離をとってこそ、その対象の潜在能力を最良の形で表出させることができるのだ。そして、とるべき距離をコントロールするのは一方的に人間の側でなければならない。

 バレンタイン監督はその一連の采配で、人との関わり方における一つの理想型を示してくれた。その彼に、もし「お金との関わり方」について尋ねたら、こんな答えが返ってくるのではないだろうか。――「金があれば何でもできる」という拝金主義、逆に「お金なんかどうでもいい」という全面拒否、どっちもずいぶん偏狭でつまらない話じゃないか、もっとお金と仲良くやろうじゃないか!


'05.秋  東雲 晨

 



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