今年のPRIDEマットにおいて注目度No.1と言っていい一戦、王者エメリヤーエンコ・ヒョードル(ロシア)と挑戦者ミルコ・クロコップ(クロアチア)によるヘビー級選手権試合は、残念ながらスッキリしたとは言えない結末に終わった。現時点でどちらが強いかはハッキリしたものの、試合としての面白さについては不満の残るファンが多かったことだろう。

 期待度の高い屈強同士の対戦が、両者とも持ち味を出せないまま不完全燃焼に終始することはままある。負けないために守りに走るような場合は論外だが、お互いが勝つために攻めあぐねて結果的に決め手を欠いた、などというケースは仕方がないのかもしれない。とりわけ、頂上決戦といわれるほどにハイレベルな相手との戦いではそれこそ一瞬の隙が命取りになるため、そうそう迂闊には攻撃を仕掛けられないだろう。昔の剣豪同士の果し合いで、双方ともに先手を取れぬまま何時間も睨み合いだけが続いた、などというエピソードと同じである。
 しかし、観客不在の果し合いとは違い、格闘技の試合が観客に「見せる」ことを前提としたものである以上、観る側が最も期待している要素を最優先させてこそプロの格闘家といえるのではないか。もちろん派手でショー的なパフォーマンスなどいらないし、観客にもリング上での間合いや駆け引きの妙を読みとる力は要求されるが、プロたるもの、例えば今回のような頂上決戦に観客が何を期待しているかをもっと意識してほしいということだ。
 プロ野球・読売ジャイアンツの関係者が「ウチがFAで有力選手をかき集めるのは、自軍を強くするためもさることながら、実は他チームの戦力ダウンを図るための方が大きいんだ」と言うのを耳にしたことがある。その選手を自軍で飼い殺しにしてでも、他チームから有力選手を引き抜いてそのチームの戦力を削ぎ、相対的に自軍の位置を上げる、という手法である。要は全体のレベルを下げてでも自軍が勝てればいいという極めて卑劣で貧しい発想だが、極端にいえば今回のヒョードルの戦い方にもそれに近いものがあった。
 ハイキックを始めとした立ち技を得意とするミルコを執拗にグラウンドへと引きずり込み、かと言ってしっかり仕留めることもできず、必死のディフェンスに決定打を阻まれ続けたまま試合終了のゴングを聞くに至った。相手にペースを握らせないのは当然の鉄則だし、またグラウンドに持ち込まれたら防戦するのが精一杯というレベルで王者ヒョードルに挑むこと自体が間違いなのかもしれない。だが、ヒョードルとて打撃においても第一級の実力者である。スタンドで激しい攻防を繰り広げ、ミルコの打撃技を凌ぎきった上でグラウンドに倒して決めにいく、という“横綱相撲”で自分の強さを見せつけてもよかったのではないか。恐らくファンの多くはそんなファイトを望んでいただろうし、少なくともミルコの魅力を完封した末の判定勝ちがファンの望んだ決着だったとは思えない。
 一方のミルコに至っては、より罪が深いかもしれない。いつもの彼とは別人のように腰が引けてろくにキックを繰り出せず、グラウンドに寝かされては分が悪いのを熟知しながらいとも簡単にテイクダウンを許し続けた。終始ヒョードルのプレッシャーに気圧されて、身体が前に出ていないのは明らかだった。勝気なミルコらしからぬこの消極性は、いい意味での“遊び”のなさに起因するものであったろう。切望しながら長らく叶わず、やっとの思いで実現したこの一戦に向けて、祖国、家族、そして亡き父の魂と、ミルコはあまりにも多くのものを背負い込みすぎた。うまくすれば励みになってくれるそれらの要素が、逆に重荷となり彼を押し潰してしまったのだ。
 「気負いすぎて硬くなり、実力を出し切れなかった」などというのは、やる側にとっても観る側にとっても後味の悪い結果である。ましてやミルコほどのトップ・ファイターにそんな素人じみた言い草は許されない。過剰なストイシズムとの訣別――それが、今後のミルコに突きつけられた最大の課題ではないだろうか。

 また、別の角度からこの試合を考えてみよう。世の中には「レベルの高さ」が誰にでも分かりやすい分野とそうでない分野がある。例えば色の美しさや匂いの香(かぐわ)しさなどは「いいもの」と「一般受けするもの」とが概ね一致する領域だが、良質さを追求すればするほど敷居が高く難解になり、ポピュラリティの獲得から遠ざかってしまう領域もある。スーパーカーの格好良さが万人の目に明らかな一方で、その走りの奥深さはごく優れたドライバーだけが体感できる、というように。
 格闘技でいえば、初代タイガーマスクこと佐山聡を中心に今から20年以上前に立ち上げられた第一次UWFがその典型だった。かつて日本では大相撲、プロボクシング、それに沢村忠を擁したキックボクシングなどがメジャーな格闘技として人気を集めたが、第一次UWFのファイト・スタイルは現在のPRIDEに代表される「総合格闘技」のルーツとも言えるものだった。プロレス界でのスーパースターの地位を捨てた佐山が「既存プロレスと正反対の真剣勝負を」という高邁な方向性のもとに創出したファイト・スタイル、すなわち「シューティング」。しかしそれは、少数の格闘技フリークこそ喜ばせたものの、観せる要素を排しすぎた地味で分かりにくい動きが一般のファンには受け入れられなかった。
 マニアックになることを避けるのと難易度を下げるのとは大きく異なる。どんなジャンルにせよ、観る側に専門知識を要求するようなマニアックな分かりにくさは当然避けるべきであり、その点でUWFにやや難があったのも否定できない。ただそれ以上に、シューティングというスタイルを難易度を下げないまま一般のファンにアピールする、つまり「レベルの高さ」と「分かりやすさ」を両立させることが、少なくとも当時のUWFのレスラーたちには不可能だったのだろう。
 その反省に立ってより分かりやすさを前面に押し出したのが前田日明らの第二次UWFで、「見映えのするリアル・ファイト」は予想だにしない爆発的ブームを呼んだ。が、今度はショー的要素にこだわる余り肝心の実戦的な強さに翳りが生じ、最終的には自滅に近い終焉を迎える羽目に陥った。
 その後、アルティメット大会からK‐1、PRIDEへと連なる空前の格闘技ブームが展開され、その過程で「戦いとしてのクオリティ」と「観て楽しめるエンターテインメント性」とが飛躍的に融合されていった。つまり、格闘技は「誰にでも分かりやすいレベルの高さ」を提供できるジャンルであるということが見事に証明されたのだ。となれば、ヒョードル対ミルコなどという極上カードにおいては、他にも増してそれを提供できるはずだ、いや、提供して然るべきだったと私は思う。膠着した渋い攻防は一部の通を唸らせたかもしれないが、格闘技とはそんなものではないだろう、と。

 それにしても、余談ながら……近代機器を一切使わず大自然を利用したトレーニングに徹してPRIDE王座に君臨する“氷の拳”ヒョードルに続けとばかり、片やK‐1のマットでは、大相撲幕内力士の露鵬・白露山兄弟と幼馴染みで、子供の頃から遊び感覚で格闘技に接してきたというロシアの若き“速射砲”ルスラン・カラエフが、ラスベガスでの世界最終予選およびグランプリ開幕戦を制して決勝トーナメントへの出場を決めた。こんな秀逸なナチュラル・ファイターたちが次々と輩出するロシアとは、かくも底知れぬエリアだと言えよう。


'05.秋  東雲 晨





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