21世紀に入ってブレイクし始めたお笑いブームが、まだまだ終わりそうにない。'80年代初頭に日本中を沸騰させた漫才ブームに匹敵する盛況である。しかも今回のブームでは、「何でもあり」の時代を映すようにそれぞれの芸人の色んな個性が花開いていると言われる。だが、本当にそうだろうか。今のブームを担っている芸人たちの中に、真に個性的といえる存在がどのくらいいるだろうか。
 「芸とはこうあるべきだ」という固定観念に支配されていた時代とは打って変わって、昨今のお笑い界は「やりたい放題」である。なのに、今の芸人たちはむしろ似たり寄ったりの空気を醸し出し、規則でがんじがらめだったはずの昔の方が強烈な個性を放つ芸人が多かった。これは昔と今とを共に知る人たちのほとんどが認めるところだろう。そしてそれはお笑いに限らずどのジャンルにも、いや、そもそも世間一般においてすら当てはまる傾向である。一体なぜだろう。日本人は権威や体制に従順で、何かに縛られた方が持ち味を出しやすい、といった見方もある。確かにそういう国民性は否定できないが、果たしてそれだけの話だろうか。
 話は逸れるが、近年の読売ジャイアンツは壊滅的に弱い。FAなどで有力選手を毎年のように補充しながら、それに反比例するかのごとく年々弱さが深刻度を増していく。単純に戦力を見れば明らかに図抜けているのだから、監督の采配や選手のモチベーションに問題があるのは疑いようがない。チーム作りにおいてはタイプを同じくする大リーグ・NYヤンキースが常勝球団の座を維持している以上、やはり問題は個別的なものだと考えるべきである。「巨人が強くないと野球がつまらない」という常套句どおり、プロ野球人気が今ひとつパッとしない一因は巨人の弱さにあると言っていいだろう。巨人が強くないと野球がつまらない――ある屈強のチーム(巨人に限定する必要はないものの)があってこそ、それを乗り越えるべく他チームが発奮して力をつけ、その動きがプロ野球全体のレベルアップにつながって盛り上がる――この言葉に大きなヒントがある、と私は思う。
 何らかの強大な力が天下を牛耳ろうとするとき、ほとんどの者は大人しく呑み込まれてしまうものの、そこに納まりきらない個性や力量を持つ者が必ず頭をもたげて反発する。そして、強いものと激しくせめぎ合う中でますます先鋭性を研ぎ澄ましていく。これは、やや方向はずれるものの、アメリカ政府が武力でねじ伏せようとすればするほどテロの炎は燃え上がる、という摂理に似ているかもしれない。
 片や、自由というのは取り扱いが難しいもので、実際に自由をあてがわれると大部分の人々はどうしていいか分からず、結局は周りに合わせることになり、気がつけばみんな同じようなことをしていたりする。前述のような強大な力――人工的な取り決め――は、それへの反発力を誘発する効果を持つ(故意にその効果を狙って強い力が設定される場合もあるだろう)が、過剰なほどの自由を与えられると、そこには“自然発生的な取り決め”が出来上がってしまう。それぞれが皆と違うことをやっているつもりが、実は知らず知らずのうちに皆と大して変わらないことをやっているのだ。
 かつて強い力に取り込まれた者たちは、取り込まれたという自覚があるため、周囲と同じようなことをしている自らに対して一抹の後ろめたさも持っていた。だが、今のこの「何でもあり」の時代に無節操なまでの自由を与えられた者たちは、彼らを覆う取り決めが自然発生的であるがゆえに、周囲と同じようなことをしているという自覚すら持たない。そのため、真に異質なものはむしろ手もなく見落とされてしまう。かつては悪意をもって排斥された異分子が、あくまで“無自覚に”排斥されることになるのだ。「民衆が反発しうる壁」から「民衆自体が壁」へ――この辺りが最近の「個性の時代に何故か無個性」の原因ではないだろうか。だとすれば、恐ろしいことである。作為的に植えつけられた戦時下の軍国主義思想などよりも、はるかに強固で救いがたいと言えるかもしれない。
 では、この“空前の壁”に塗り籠められた「真なる異分子」は、このままくすぶり続けるしかないのか。それとも、そんな空前の壁をも乗り越える“空前の超越手段”を何とか編み出してこそ、「真なる異分子」の称号を恣にできるのであろうか。


'05.夏  東雲 晨





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