ジョン・レノンの2枚の新作CDが、このほどリリースされた。ザ・ビートルズ関連のCDやDVDは、「結成○周年記念」や「解散○周年記念」、はたまた「ジョン・レノン没後○年」などの名目のもと、手を替え品を替えしながらコンスタントに発売され、その度に驚異的なセールスを記録する。ジョージ・ハリスン亡き今、そのラインナップに「ジョージ・ハリスン没後○周年」なる謳い文句が加わるのも時間の問題だろう。
 ビートルズは、この不況下にも「確実に売り上げを見込めるブランド」として今なお健在であり、その流れはビートルズ世代に掠ってもいないような若者たちにまで及んでいるようだ。もちろん、ネームバリューに踊らされて飛びつくような人も少なくないだろうが、それを差し引いても絶大な人気を誇っているのは確かなところである。これは一体どういうことなのか。
 ビートルズの音楽を評価する際に最も一般的に用いられるのが、「時代を越えた普遍性」「いま聴いても新しい」などといった類の言葉である。その「普遍性」や「新しさ」の意味について考えてみたい。
 ジャンルを問わず、ある時代に人気を博したものが後々にもそれを維持し続ける場合と、その時代にのみ人気を博する場合とがある。ビートルズを含む前者は彼ら自身がいつの時代にも受け入れられるように見えるが、それは錯覚にすぎない。彼らはあくまで彼らが活躍した時代との融合においてこそ受け入れられるのである。ビートルズに関して言えば、彼らがリアルタイムで飛び跳ねていた'60年代という時代の空気や風俗と彼らとは、切り離すことができないのだ。例えば、2004年のいま現在にビートルズが新人として現れても当時のように売れるとは思えない。つまり、時代を越えた普遍性を持つのは単体としてのビートルズでなく、あくまで「時代を瑞々しく映し取ったビートルズ」であり、この複合体がいつの世の人々をも魅了するわけである。
 また、ある時期に新しかったものが数十年を経た後も同じように新しい、などということは現実にはあり得ない。若者が自分の生まれる前のものを新鮮に感じたとしても、それは知らないものに初めて触れたからに過ぎない。ビートルズがいつまで経っても新しいのは、彼らの音楽が聴くたびに新たな発見を促し、前回聴いた際にはなかった要素を提供してくれるからである。いわば、彼らの音楽は常に「次なる斬新さ」を繰り出し、いまだ誰も見たことのない世界を恒久的に描き続けているのだ。ある時代にのみ流行し、後に「懐かしさ」しか遺せないものとの力の差は、音楽としての実力自体もさることながら、そういった“新しさにおける懐の深さ”にも由来するのだろう。 
 この世には、「変わらぬ価値」が存在する。新しい感覚や価値観は日々産声を上げるものの、それらの多くは皮相的で、しっかり根付くこともないまま何事もなかったかのように次から次へと消えていく。ただし、「変わらぬ価値」といえどもいつも同じ形でいることを許される訳ではなく、時代の息吹を察知したスムーズな変貌が求められる。その点においてビートルズの音楽は、絶えずその時どきに即した新味を湧出させる“渇き知らずの源泉”とでも言えるのではないだろうか。
 現在や未来にも適応する形にアレンジできる要素、あるいは新しいものを創り出すためのヒントになる要素をどれだけ内包しているか。歴史や伝統の豊かさの指標はその辺りにある、と私は思う。ただ同じことを延々と繰り返してそれを未来にも受け継いでいこうとするような姿勢は単に「古臭い」だけであり、そんなところから豊かな歴史や伝統などは生まれ得ないのだ、と。
 ビートルズを形容する言葉として、こんな常套句もある。「彼らの音楽の中に、その後のすべての音楽が含まれている」――はるか半世紀近くもの彼方から常に最前衛の音楽を現出し続ける“ファブ・フォー”ザ・ビートルズは、「最も伝統あるロックバンド」として、今後も際限なく新生し永らえるであろう。


'04.秋  東雲 晨





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