日本を代表する2大名作漫画『巨人の星』と『あしたのジョー』をカップリングし、2002年から2003年にかけて1年半、計36回にわたって発行された『ジョー&飛雄馬』(講談社)という雑誌が、大いに好評を博した。『巨人の星』の主人公・星飛雄馬が編み出した三つの魔球はあまりに有名だが、その中でも大リーグボール1号は一風変わった代物だった。
 大リーグボール1号とは「予測の魔球」である。相手打者のバットがどう動くかを予測し、天才的なコントロールでボールをバットに当てて凡打に仕留めるのだ。いかに飛雄馬の投げて来るボールから逃れようと打者がバットを動かしても、最終的にボールはバットをしっかり獲らえているという、現実ではあり得ないような魔球である。遠ざかって行くはずのものが、逆にグイグイ迫って来る――。「消える魔球」の大リーグボール2号や「バットをよける魔球」の3号は、魔球としてはむしろオーソドックスなものだが、それらを抑えて“バットに当てる”などというトリッキーな魔球を真っ先に持ってきた点が、私としては妙に印象深かった。
 
 ポップ音楽やCMソングで見られるリバイバルの嵐は、テレビドラマや映画でも猛威を振るっている。上述の『ジョー&飛雄馬』もそんなブームに乗って成功を収めたものだ。その一方で、今現在のオリジナル曲は、大ヒット作ともなると昔とは桁違いのCDセールスを記録している。もっとも、今のCD売り上げのほとんどはレンタル店の買い占めによるものであり、一般購買者のみによる売り上げだった時代とは比較できないが、いずれにせよ最新の音楽シーンが廃れているとは思えない。にも拘らず、昔の媒体がこれほど受け入れられるのは、やはりそれだけ世の中からの需要が高まっているからであろう。
 レトロ志向はいつの時代にも存在するものだが、それは通常あくまでも“傍流”の域を超えるものではなく、時代の表舞台に躍り出たりはしない。ところが現状では、ともすれば主役の座を奪うかと思えるほどの勢いを見せている。古きは新しきに取って代わられるのが世の常なのに、である。遠ざかって行くはずのものが、逆にグイグイ迫って来る――。もしかすると、古いものを渇望するその裏には「新しいものは全て出尽くした」という心理が働いているのかもしれない。

 さて、文明が進歩するには、人類による「楽で便利な暮らし」の希求が大きな原動力となる。文明の進歩に伴い自然や環境は壊されていくものだが、人間が「楽で便利な暮らし」を欲し続けるのもまた自然の摂理だ。よって、自然破壊・環境汚染はとどまるところを知らない。それが、ここへ来て、ずっと以前から叫ばれている地球危機がいよいよ飽和点に達しつつあるとの感触が世界的に強まってきた。その結果、科学・技術の力を駆使した自然・環境保護の必要性を訴える声が高まり、“文明と自然の共生”なる概念が生まれた。これを人間や文明の「進化」「成熟」と謳う向きも多い。遠ざかって行ったものをもう一度呼び戻そう――“文明と自然の共生”とは、リバイバルの最たるものである。だが、そんなことが本当に可能なのだろうか。               
 例えば、アメリカ政府が先住民の人々を手厚く保護する、などというのなら話は分かる。かつてアメリカ大陸に踏み込んで先住民たちを大量殺戮した輩と現在のアメリカ人は全くの別人だからだ。祖先の犯した暴虐について子孫が出来る限りの償いをする、そんな行為に何ら問題はない。だが、文明というものは現在進行形で今日も確実に自然を侵している。その同じ文明が、一方では自然を保護し共生しようだなんて、あまりにムシが良すぎはしないか。同胞を次々と殺し続ける憎むべき仇の差し伸べる手を、誇り高き大自然がそう簡単に握り返してくれるものだろうか。

 冒頭で述べた魔球・大リーグボール1号は、これまた現実離れした打法によって葬り去られた。つまり、グイグイ近づいて来たものが再び突き放されたわけだが、現実世界での自然と文明の関係は、果たしてどういう方向に展開していくであろうか。


'04.夏  東雲 晨





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