20世紀最後の直木賞作家・船戸与一氏の作品においても“最高傑作”の呼び声高い逸品『山猫の夏』について書いてみたい。
 ブラジル東北部のうだるように暑い町・エクルウでは、二つの名家による反目・確執が百年以上にもわたって繰り広げられている。そこに現れた“山猫”なる日本人が、地元の酒場であてもなく働いていた若い日本人を従えて、両家の抗争を煽り立てた挙句に巨額の財産を掻っ攫う、という筋である。
 日本の管理社会からはみ出して外国に流れ着き、頼りなくふらふら生きていた若者が、大いなるカリスマ性をもつ人物と出会い行動を共にする中でグイグイ鍛え上げられ、ついには彼と肩を並べるまでに成長を遂げる。これは船戸氏の作品にしばしば見られる痛快な特質といえる。
 金や権力のことしか頭にない連中を掻き回して大量の血を流させ、彼らの財産を強奪するという、一見すると卑劣かつ強欲極まりない人物であるはずの山猫が、何故か終始すがすがしい印象を撒き散らすのだが、物語の最終局面にさしかかってその謎が解けたとき、読者はこれ以上ないほどの感動に心を震わせることとなる。
 船戸氏は、作品の中でしばしば力説する。世の中のほとんどはどうでもいいことだが、ごく僅かながら「どうでもよくないこと」が間違いなく存在する、その見極めが重要なのだ、と。本作にはその主張が最も色濃く反映されている。そこが、氏の“最高傑作”たる所以であろう。真に大切なものを守り抜くために、くだらぬものを利用し尽くして骨の髄まで食い散らす。そんな生き様の力強さとカッコよさに、本物の男なら必ずや酔いしれるはずなのだ。
 「熱き反逆のニヒリズム」なるフレーズをご存知だろうか。古畑任三郎の実の父君でもある往年の時代劇スター・阪東妻三郎のニックネームだが、この言葉を耳にして「熱き」と「ニヒリズム」の並列に矛盾を感じる向きも多いかと思う。そんな人には、是非ともこの小説を読んでもらいたい。熱き心を秘めた者こそが虚無の極致に到達できるのだ、ということをお分かりいただけるであろう。
 最初は登場人物の多さと状況設定の複雑さとに辟易して仰向けに寝転がって読んでいたのが、読み進むにしたがい興奮して俯けになり、次に椅子に座って背筋を正し、読み終わった頃には立ち上がって大空を見上げ、大きく一息吸い込みたくなる。そんな小説である。これは冒険小説やハードボイルドなどという使い古された呼称を突き抜けた、そう、まさに“男の”小説なのである。


'01.春  東雲 晨





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